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山本健吉と中上健次 花鳥風月の原風景

                                                五十嵐秀彦

         

 

一、『いのちとかたち』

 

 今、私の前に二冊の本がある。それは、山本健吉の『いのちとかたち』と、高澤秀次編『中上健次と読む「いのちとかたち」』である。山本健吉という評論家には、幾多の歳時記の編纂と、かるみ論や純粋俳句論などに関する片々たる知識しか、かつての私は持っていなかった。そんな私がこの人物にはじめて注目したのは中上健次の年譜に登場する「山本健吉らと吉野に花見」という一行との出会いである。

 吉野の桜。

 その桜の森の入口に中上健次が立っていて、森の奥に山本健吉が見える。それはとても謎と寓意に満ちた光景であった。

 

 吉野は熊野に通じる。その地政学的空間の中の何かをこの二人が共有している。それは何か。また、この二人の関係を知った時に、最初に感じた違和感の正体は何か。

 今回私はそのことを考えてみようと思う。

 

 この二人の作家の関係を考えるときに、やはり『いのちとかたち』の重要さは際立っている。この作品は昭和五十三年山本が七十一歳の時に「那智滝私考―日本美の『いのち』と『かたち』」として「新潮」に連載されたものが、昭和五十六年に『いのちとかたち―日本美の源を探る―』として新潮社から刊行された。同年、この作品で第三十四回野間文芸賞を受賞する。

 そして二年後、中上と出会うこととなった。出会いのいきさつについて中上自身が語っていたことによれば、昭和五十八年の尾崎一雄の葬儀に出席した帰りに山本健吉と森澄雄とに会ったという。この出会いのあと数年間二人は一緒に吉野に花見に出かけている。

 昭和六十三年にも山本は中上健次、森澄雄、角川春樹らと吉野に桜を見に行った。そしてその翌月の五月七日、享年八十一歳で逝去する。山本は人生最後の桜を中上と見たことになる。

 

 この二人をつなぐ『いのちとかたち』の副題は「日本美の源を探る」である。これをキーワードとしたとき、日本美というものの形成過程をふりかえる必要がある。その源流ははるか前万葉期にまで遡られるが、それが今につながる形で完成したのは中世であろうと思う。

 現在、私たちが日本独特の美的文化と認識しているものの多くは鎌倉~室町時代にほぼ完成し、それがそのまま現代にまでつながっている。中世において日本人は何を経験したのか。俳句文学の美を思うときも中世の精神文化の大きな変革を無視すべきではない。

 

 どうやら私はすこし話を急ぎすぎているようだ。論がこの国の歴史をさかのぼりだす前にまずは、四十代前半の山本健吉にいったん視線を移してみたい。

 

 

二、山本健吉の俳論 その季語観

 

 「挨拶と滑稽」や「純粋俳句」という昭和二十年代に書かれた評論を読むと、山本の俳句への厳しい姿勢が見えてくる。それは芭蕉を俳句の理想と位置づけ、世界を構築しようという考えが強く出ているからだろう。中でも注目すべきなのは、あえて切れを重視して、季語を副次的な約束事と見ているところだ。

 

 《俳句を発生史的に考えてみますと、どうしても切字の約束の重要さを見落とすわけには行かないのであります。むしろ季の約束よりも切字の約束の方が大事な、第一義的な約束であって、これに較べると季の約束は副次的なものだとさえ言わなければならなくなるのです》(「純粋俳句」より)

 

 実作者である私から見ると、なぜ季語を切字より下に置かなければならないか疑問に思った。《発生史的に考えてみますと》と言っているところから考えるとそれは連歌の発句への考察から出てきたものなのだろう。俳諧はその出自である連歌が持っていたものを多く継承している。反連歌的動機あるいはパロディから発生したものでありながら、約束事の多くを連歌に頼っていたとも言えよう。その連歌の遺伝子の中で、約束と情緒とを区別して論じている点が俳論らしからぬ論理性を発揮して異彩をきわめているのだ。

 季語が副次的な約束事であることを主張することで制限されるものは、季語にまつわる情緒である。そのねらいは俳諧が持っていた連歌的有職故実への卑屈なあこがれへの反発であったのかもしれない。たとえば「時雨」とはこうあらねばならないという連歌の権威にもたれかかった形式主義への反発から、山本は季語の俳句に持つ創作上の意味を最小限のものにしようとしたのだろう。俳諧が連歌の形式をとりながら、そのパロディによる笑いをバネとして誕生しながらも、江戸俳諧はしばしば連歌の形式を重視しがちであった。そこに季の約束事があり、連歌、または新古今における季の情を踏襲する習慣が生まれた。それが明治の俳句以降、現代に到るも根本的に変ることなく来ているのではないだろうか。

 山本の本意は季を軽視するのではなく、長く続けられてきた形骸化した季感という情緒としての概念に枠をはめようとしたものではないかと考える。それは、季語=季感=自然ととらえがちな俳人の創作態度への牽制であろう。

 

 《芭蕉の句には概して蕪村のような濃厚な季題趣味はない。だが少なくともその一句から受取られるものは、言葉と形式との格闘の末に掴み取った新鮮な創造物である。季的観念は蕪村のように作品企画の中にあるのではなく、製作とともに創られるのである。芭蕉における季題感情、すなわち自然感情は、その句における唯一無二のもので、たやすく他の規範となるべきものではない。「春雨らしさ」「行春らしさ」と言った感情は無い。作品となって始めて美しいものとして彼の前に現われる季的観念を、彼自身が先ず驚きをもって眺めたに違いないのだ。彼にあっては作品を離れて季的情緒は存在しない。作品が完全な意味で創造であり、真実の探求である所以である》(山本健吉「挨拶と滑稽」より)

 

 芭蕉世界に仮託し山本は子規以降の俳句のあり方を牽制している。芭蕉と蕪村との対比は子規を意識していたものと思われる。山本のこの一見狭視野的にも思える季語観が実は伝統に還ることで真実を見つめなおそうとする姿勢でもあることを理解するためには、私はもう少し考えてゆかねばならず、そのためには山本の師折口信夫の助けが必要となるようだ。

 

 

三、折口信夫の系譜

 

 「挨拶と滑稽」から『いのちとかたち』までの長い考察の道筋を理解するのには、折口信夫の存在を避けて通ることはできない。

 折口のややロマンチックな古代学に対し、山本は一見堅実な理論展開をしたかに見えながら、その実は師の学説を表現を変えて再論しているものであった。特に人麻呂論は、茂吉らの万葉解釈を折口説によって反駁しようとしたものである。そこに強くあらわれているのは、「うた」における近代的自我の解釈への反発である。そのことを山本は『古典と現代文学』で、再反論をゆるさぬ緊張感を持って説いている。

 山本が持ち続けたこの先師折口の影は、後年に中上との交流を成立させた重要な要素ともなる。山本と中上、この二人を文学的につなぐ折口の作品と言えば、それは『死者の書』をおいて他にはないだろう。

 

 「死者の書」とゞめし人のこゝろざし―。

  遠いにしへも、悲しかりけり

               釈迢空

 

 折口信夫の思想はこの一首に語りすぎるほどに語られている。コトダマをとどめようとしてきた古代からの詩人のいとなみ、人のいとなみの悲しさが、「うた」を連綿とつないできたのである。

 折口がその深淵を一心に覗き込んでいたのに比べ、山本は伝統の流れを見つめていたように思える。形式の伝承と詩人の視点との間を揺れ続けてきたこの国の「うた」の伝統、俳諧の伝統を山本は抉り出そうとしていた。しかし同時にそれは言い方を変えながら折口の思想を述べているものでもあった。

 

 『死者の書』において、私が最も重視しているものは、漢字によって置き換えられた「ことば」の再評価にあると考える。それは折口がはじめて行ったことではなく、本居宣長ら国学者がしばしば主張していたことではあったが、明治以降の文学の中で早々に傍系に追いやられ、捨てられたもののひとつでもある。『死者の書』を読むことは、その独特のルビに興味ひかれ、魅了されることでもあるのだ。

 掌=タナソコ、韻=ヒビキ、緘黙=シジマ、訣=ワケ、差別=ケジメ、幽界=カクリヨ、説明=コトワケ、などなど。読んでいるうちに字とは恐ろしいものだと思った。

 日本人は、漢字からカタカナ、ひらがなを作り、それらを組み合わせることで漢字渡来以前の古代の心を再現してきたのかもしれない。それはトコヤミのシジマの恐ろしさであろうか。さらに重要なことは、折口が「霊」に「モノ」とルビを振っていたことにある。「モノ」を辞書で引くと、一般的な意味のほかに《何か正体は分からないが、人間を超えた不思議な力を持ち、人間の精神生活を支配する存在。もののけ。》(「新明解国語辞典」)、《超自然の威力あるもの。何かの霊・鬼・物の怪など。》(「角川新版古語辞典」) となっている。

 古代から日本人は自分たちが生活している空間とほぼ同じ領域の中に、「向う側」というべき世界、つまり「異界」の存在があることを信じてきた。その異界からはしばしば「モノ」がこちら側の世界にやってくるとも思っていた。「物心がつく」も「物狂い」とか「物の怪」もそこから発したことばであろう。「モノ」には物質(見える)と非物質(見えない)のふたつの意味があり、それははっきりと分けることがむずかしいものであった。

 見えざるモノが何かに憑いて、物質としてのモノとなる。そこから「霊」に「モノ」とルビを振る必然性が生まれてきたのだろう。

 そして「物語」も本来「モノカタリ」として発生したのに違いない。物語とは物を語るのではなく、物が語るのだろう。『死者の書』とはそんな古代の日本人の思いをモノカタリとして再現してみせた作品なのである。古くは『竹取物語』に始まり、一大ピークをなす『源氏物語』を代表として、物語の多くは歌物語の体裁を持っていたことにも注目したい。そこに歌を主体とする文学の流れが見てとれる。

 歌そのものが「モノがカタル」ことであるとする考えが、この国には万葉以前からあった。「モノ」とは、神あるいは霊のことであり、それが万葉期には天皇と同義とされたため、柿本人麻呂ら多くの「神=天皇」の代作者がいたのである。しかし平安末より天皇の権力、権威が崩れはじめ、それ以降「モノ」から天皇の影が薄れてゆき、「モノ」の中心は自然界に満ちる霊に戻されていった。また、呪術的共同体の解体が、「モノ」の憑く「私」の意識を芽生えさせもした。その形が中世以降の日本の文学の基本的な姿勢となる。

 

 

四、中世という時代

 

 山本は宗祇の残した言葉をしばしば引用した。俳句の伝統というものを考えたとき、やはり連歌の式目が詩形の点においてきわめて重要という認識があったのだろう。もちろん詩形の上でそうであったろうが、はたしてそれだけか。

 連歌の生まれた時代そのものが俳諧精神の成り立ちに大きな影響を投げかけていた。連歌はどのような時代に生まれ、どのように発展、衰微していったかを考えるとき、その時代に日本人はどんな「顔」を持っていたのだろうかと思う。それは今の私たちの「顔」の意味を知ることでもある。そのためにも、少し煩雑とはなるが、ここで連歌の発生史を振り返ってみたい。

 

 連歌の歴史の初期において、堂上連歌と地下連歌とがあった。後鳥羽上皇時代から連歌は歌人の余技として行なわれ、堂上連歌は主に宮廷歌人によるもので、地下連歌とは庶民によるものであった。その地下連歌は連歌師という職業人を生み、鎌倉時代の連歌師としては式目を作った善阿が知られている。そしてその弟子に救済がいる。救済は二条良基とともに「菟玖波集」を撰し、地下連歌と堂上連歌が合流して有心連歌ができた。その良基の孫弟子に宗砌がおり、同時代に心敬がいた。宗祇はこの二人に連歌を学び「新撰菟玖波集」編纂を行う。宗祇は後土御門天皇から「花のもと」の称号を賜っている。この「花のもと」という称号は、当初は地下連歌師のことを言ったが、宗祇の時から連歌の第一人者に与えられる称号となり、その後は秀吉が里村昌叱に与え、江戸時代には里村家の世襲となった。幕末まで里村家は連歌の宗家として幕府に仕えた。

 宗祇の弟子には宗長がいた。室町後期の連歌師として遍歴の人であった宗長の経歴は興味深い。父は鍛冶職であった。早く今川義忠に近侍、十八歳で出家したが、義忠戦死のときまで書記役として仕えた。その後、宗祇に師事し連歌師となり、宗祇の旅に同行する。四十九歳のとき再び今川家に今度は連歌師として仕え、八十五歳まで生きた。この人物も阿弥号を持ち、長阿といった。親が鍛冶職というところにも注意すべきだろう。

 そして、この宗祇、宗長と交流のあった連歌師に武士出身の山崎宗鑑がいる。室町末期に宗鑑は「犬筑波集」を作った。同じ時期の連歌師に、伊勢神宮の神官であった荒木田守武がいて、「俳諧の連歌」を唱えた。この宗鑑と守武の二人から俳諧が始まる。一方、里村昌休の弟子に紹巴があらわれ、この紹巴の弟子に松永貞徳がおり、庶民の間に俳諧を広めて、貞門と呼ばれる派をなした。その弟子に安原貞室、山本西武、北村季吟がいた。一方、西山宗因は里村昌琢に師事し、大阪天満宮連歌所宗匠となると同時に俳諧にも親しみ、談林風と呼ばれ、門下から西鶴、芭蕉を出すことになる。

 芭蕉は当初は貞門の北村季吟に師事したが、のち談林の俳風に移り、そののち独自の俳風である蕉風をひらいた。

 

 鎌倉時代の連歌師から元禄の芭蕉までの系譜を一息に辿ってみた。この系譜で注目すべきところは、地下連歌と堂上連歌が合流するところである。合流したといっても、この二つの流れはその後も必ずしも一本化したわけではない。堂上連歌(有心連歌、柿本衆)は権力側にすりより、形式化形骸化が進み、江戸期には里村家世襲の形式的文芸となり、逆に地下連歌(無心連歌、栗本衆)が俳諧を生み出すことになった。そう見ると、芭蕉は地下連歌につらなる流れの中にいたのだと思う。そして連歌師に善阿や長阿という阿弥号を持つ連歌師がいた。阿弥号とは、浄土宗各派、特に一遍時衆の信者の法号であり、その後に仏師、画工、能役者という職能民の名に使われた。地下連歌師は中世の職能民の階層にいたのである。

 つまり、平安末から鎌倉時代にかけて、朝廷の衰退にともない神聖共同体からはじき出され、阿弥陀仏に自己の救済を希求した「捨てられた民」に「うた」が引き継がれ、地下連歌となり、俳諧連歌となって、そして芭蕉というピークを生み出したのである。 

 芭蕉が西行を慕い、旅に人生を終えたのも、遊行の血がそうさせたのかもしれない。

 

 この国の花鳥風月の伝統を生々しく継承したのは彼ら放浪の民であった。俳諧の前史を見ていくとこのような連歌の歴史がそこにあるが、さかのぼれば更に万葉まで行ってしまうのは当然のことかもしれない。

 

 万葉期の歌人というのは、神の「うた」の代作者なのであって、作者が誰であるかは当時の社会ではあまり重要なことではなかった。今では大歌人と言われる柿本人麻呂でさえ卑官であったし、作者不明や庶民の作品が多数あることも、古代のおおらかさというよりは、「うた」は神のものだという認識があり、作者が誰であるかは特に意味のないことだったからと思われる。

 氏族共同体の代作者としての神のうたの伝統は絶えることなく、特に平安時代の天皇の神権にとってそれはきわめて重要なものであった。それゆえに古今集に始まる勅撰集がその後の朝廷の衰微にもかかわらず長く編まれ続けた理由でもある。

 だがしかし、後鳥羽上皇の敗北が決定的な転換点を作る。もともと氏族共同体の中で育まれてきた「うた」が、天皇権威によって成立する神聖帝国の中で神の「うた」として機能していた時代が終焉を告げたとき、「うた」は誰によって担われていくこととなったか。

 それは右に述べたように、堂上と地下への分化から、一方は王朝的形式主義へ、もう一方は庶民層への浸透であったことを考えればおのずと見えてくる。しかも定住民としての庶民ではなく、諸国を遍歴する職能民、つまり阿弥と呼ばれる人々が、「うた」を全国に広める役割を果たしたのである。また、王朝権威の崩壊は「うた」以前に、その時代に生きる人々の精神をも大きく揺るがすことになった。

 

 仏も昔は人なりき 我等も終には仏なり

 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

                                    「梁塵秘抄」(232)

 

 「梁塵秘抄」は後白河法皇撰の歌謡集。庶民の今様を勅撰としたところに平安末期における世界観の動揺が読み取れるようである。この歌謡集には絵師や楽人や遊女などの「律令の外の人々」が多く現れている。このような律令の外にいた人々は、王朝社会の崩壊の中で「捨てられた民」となっていった。彼らは朝廷との特殊な関係を維持してきたが、その後ろ盾が崩れたことによって、その生き方を変えざるをえなくなった。同時に神聖帝国の中に「聖別された賤民」として位置付けられていることで、宗教的にもなんらかの位置を得ていたはずの彼らではあったが、末法の時代においては自力で善を積むことのできる貴族たちだけが往生でき、底辺の人々は地獄に落ちるという思いが彼らを絶望の淵に追い込んでいた。

 これは現代人のように抽象的な信仰観によるものではなく、現実感をともなった切迫した恐怖であっただろう。この時代に日本人ははじめて共同体とは別な次元に「ワタクシ」を発見したのではないか。そうして、これまでの古代的な共同体と神とのかかわりが、「ワタクシ」と神とのかかわりへと変化していった時代、それが中世であった。

 もちろんここで神と言っているのは、一神教的神ではなく、風土のあらゆる襞に隠れ住む神のことである。

 山本健吉は『古典と現代文学』で、日本の詩的自覚の歴史において重要な時期が三度あったという。人麻呂、世阿弥、芭蕉がそれである。そしてその三人の類似点として、人麻呂が柿本族人の巡遊伶人であり、世阿弥が申楽の大成者であり、芭蕉が青年時代に出奔しカブキ者との交わりがあったことを挙げている。つまり《上からの牽引力と下からの牽引力とが同時に働きかけてくるような地点に開花》したのであり、その後《ひとたび様式が確立されると、決って上からの固定化の力が支配的となるのだ。人麻呂や世阿弥や芭蕉にあって、まだ多様な可能性として息づいていた要素が、すべて窒息せしめられて、その後は一つの方向へねじ向けられてしまう》と述べている。ここに「うた」の歴史の核心がある。

 山本の言う、人麻呂、世阿弥、芭蕉の三人には、確かに類似点がないわけではないが、下部の共通点よりも私は上部の変化に注目したい。人麻呂は身分的には低い存在でありながら、王朝という権威に護られていた。世阿弥も賎民ではあったが、武家政権の保護を受けた。芭蕉はどうか。彼は権力とは無縁のところにいて、民衆に保護されたとも言うことができる。そして、この三人の上部の構造の変化は、神聖な権威が上部から下部へと移動していく流れを示してはいないだろうか。

 人麻呂の時代、彼の属した柿本族という古代の神の言霊の代弁者が天皇という権力の聖性の代弁者でもあった時代、それが世阿弥に下ると武家政権という現実的な権力の庇護のもと古代の神うたの権威を能という詩劇に昇華させたのだろう。権力と聖性が一体であった時代は中世において崩れ、「うた」の聖性は権力とは異なる権威の中に置かれたのである。芭蕉においては既に現世の権力とも無縁となってしまう。諸国を巡っていた連歌師や、江戸期の職業俳諧師などを見ると、やはり職能民という視点から見る必要もあるのだと思う。江戸の俳諧師は墨染めの衣に剃髪という装いによって士農工商の身分の外の職能であることをあらわしていた。自らは何物も生産しない遊民の徒であったのである。

 それらの社会的な背景を理解するために、私はここでいったん文学史を離れ、ある宗教家に視点を移してみたい。

 

 

五、一遍 そして熊野

 

 かつて「聖別された神仏の直属民」という存在が中世までこの国にいた。聖なることと穢なることが不可分であった民。畏怖の対象であった彼らが、南北朝動乱期を境に賤視され差別の対象となってゆくその変化は、何が原因だったのだろう。

 中世史家の網野善彦は 《十四世紀―ほぼ南北朝動乱期を境にして、日本列島主要部の人間社会と自然との関わり方は大きな転換をとげる》と述べている。自然との関わりに変化があったというのである。

 天皇の権威の低下と末法思想の蔓延という世紀末的状況が、武家政権によって一新されていく中で、自然と不可分であった聖なる存在が社会からはじき出されたのかもしれない。

 そんな時代に捨聖一遍が登場した。

 この仏教の改革者には、勝利者ではなく敗北者の匂いがする。新しい時代の中にあって敗北者が別次元の新時代を作ってゆく。そのことが最も顕著だったのが中世だったのではないだろうか。

 一遍登場に先立つ平安末期に法然があらわれ、王朝権威とは別な次元で浄土宗を開いた。南無阿弥陀仏と唱えれば往生できるという他力易行の教えを彼は民衆に説いたのである。それは画期的な教えであった。法然の『選択本願念仏集』には、「貧賎の者」「愚鈍下智の者」「愚痴の者」「少聞少見の輩」「破戒無戒の人」が次々と登場する。そして彼らこそ救われなければならないと言う。そこに神聖帝国からも氏族共同体からも独立せざるを得なかった人々と、彼らが拠って立つ新しい権威の誕生が見てとれる。

 この仏教改革における私性の登場は、時代の変革期にありながらその主人公たる権力者の側のものとしては現れなかった。それは権力が天皇から武士階級へと動いたベクトルと同方向の変化としてではなく、時代の敗北者の側に変化していった。時代の中心における変革が敗北者たちを時代の周縁部に追いやり、追い詰められたものたちが自ら変革していったと見るとき、そこに失われた権威への郷愁に通じる原初の闇がひそんでいるように思える。

 

 文芸の「ワタクシ」もまた彼らとともに生まれ成長を続けた。俳句の歴史もそうであり、近代以降の私小説もまたそうなのである。文芸も古代の闇を内包しながら権力構造の変革の波に追い詰められ、時代の辺境を生き延びてきたと言えないか。

 網野善彦の指摘した人間社会と自然との関わり方の大きな転換がその後の文芸の通奏低音となって鳴り響くこととなったのである。

 

 話を一遍に戻そう。武士の身分を捨て、宗門も捨て、遊行の人となった一遍は、時代から疎外されることを自ら選んだ個人であった。そして一遍の遊行に多くの「捨てられた民」が付き従った。地獄に落ちる宿命を背負っている人こそ往生できると説く一遍には、共同体からはじき出された人々、あるいは天皇権威の低落にともないその聖性を奪われた「神仏の直属民」たちが付き随った。

 一遍時衆の踊り念仏は一時的ではあったが当時センセーショナルな社会現象にさえなる。それは共同体に捨てられ、自らの死に直面せねばならなかった魂の躍動の奔流であった。

 

 六道輪廻の間にはともなふ人もなかりけり

 独りむまれて独死す生死の道こそかなしけれ

                                一遍

 

 この一遍の和讃にある「独りむまれて独死す」の言葉に、中世の民衆の孤独感があらわれている。神聖帝国共同体の崩壊によって、自分自身の存在そのもの、孤独な死、に向いあわねばならなくなった当時の人々は、そんな自分たちのための新たな権威を求めた。それは権力者のそれではない。喪失した古代的呪術世界への憧憬を含んだものだった。

 一遍の信仰はアカデミックな仏教とは異なるものであり、それを象徴する事件として、彼の熊野における正覚がある。彼は信仰の確信を得るまでに、善光寺の二河白道図に出会い一筋の白い道の模索に悩み、その後、菅生の岩屋での修行を経て、熊野に到る。熊野本宮証誠殿にて夢に現れた権現の化身によって正覚するのだが、この道筋には本来の仏教とは異なる山岳信仰の色が濃い。異界、黄泉の入り口、隠国である熊野に入り悟るということは、仏教の悟りというよりも古代信仰的な死生観の確信であったのだろう。

 宗門から離れた一遍が熊野で悟ったということが、その遊行においてどれほど民衆の心をひきつけたか。ありがたい経典や巨大な伽藍の存在よりも、そのことが民衆の心をうったのである。熊野正覚後、一遍の諸国遊行には多くの信者が付き随うことになるが、その中に連歌師もいたことがわかっている。

 

 とにかくにまよふこころのしるべには

 なも阿弥陀仏と申ばかりぞ

                    一遍

 

 『一遍聖絵』の巻十に登場する「花のもとの教願」という男がそれである。

 この教願という連歌師は一遍に結縁するのだが、病にかかり一遍にみとられて往生する。右の歌は、その際に教願のために詠まれたものだ。このエピソードは、一遍時衆と連歌師との関係を示すものであると同時に、当時の連歌師が時衆と関係の深かった芸能者たちに近い存在であったことを推察させるものでもある。

 遊行の念佛聖と、流民化した芸能者、そして連歌師との関係は、その後の文学のありかた、つまり芭蕉に向かっての流れの意味を示唆しているように思えてならない。一遍と遊行をともにし、野に死んでいったこの教願という連歌師が、「花のもと」の称号を持っていたところに、中世という時代のねじれもある。

 当時、朝廷が権力も権威も武士階級にうばわれていたことを考えると、「花のもと」という称号が、権力構造とは離れたところの別な権威の存在を示しているのかもしれない。

 聖なるものと賤なるものとが同居する空間に、文学は流れこみ近世へと進んでいった。

 一遍の言葉は「貴賎高下」を捨てた裸の人間存在に向かって発せられている。一遍が《よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし》と言い切るとき、自然と「ワタクシ」との融合こそが一遍の念仏だったのではないかとも思う。そこに俳諧誕生の土壌があったのではなかろうか。

 

 

六、吉野の桜

 

 ここで再び中上健次に戻ってみよう。彼のエッセイ集『鳥のように獣のように』の最後に置かれた「小説の新しさとは何か」のことである。この五頁にも満たないエッセイが今となっては中上を読み解く非常に重要な作品となっている。それはまるで俳人に向かって書かれたかのような文章なのだ。

 

 《短篇が、死穢を踏まえてあると言うなら、俳句もそうである。季語、それがつまり花鳥風月であるなら、それも、死穢の形を代えたあらわれではないか? 季語=死語によって、死の音が鳴る。そして俳句を読むたびに、五七五の音が定形なのでなく、季語=死語が、型を決定していると思えるのである。それは短篇もそうだ。死穢の姿によって型がきまる。》

 

 これが単行本として世に出たのは、「岬」で芥川賞を受賞した昭和五十一年であった。その受賞によって注目を浴びることになった中上だが、すでにその時期に「花鳥風月」に関して独自の思いを抱いていたことになる。同作の二年後、雑誌『太陽』に「鳥獣に類ス」という短いエッセイが発表された。ここでも彼は俳句に言及する。特に芭蕉の『笈の小文』の《像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス》という言葉に対する中上の解釈と批判が面白い。

 『笈の小文』は漂泊そのものを肯定した者の自然観であるのに対し、「木の国根の国物語」と題して紀伊半島を旅した自分は、芭蕉の言う漂泊の否定であって、旅をする事そのものが漂泊の否定であったと中上は言う。

 《花を花、月を月と詠ずるに文人で充分であるが、花とは何なのか月とは何なのか問う者は、文人ではない。その者に風雅はなく、あるのは、壊れた造化としての自然、壊れ破砕された私である》

 であるから、中上は、自分は夷狄であり鳥獣であると言う。このエッセイを収めた『夢の力』(講談社文芸文庫)の解説で井口時男は、中上がこの小文で言おうとしたことを次のように説明している。

 

 《「壊れ破砕された」無限の多様性としての自然に面接しながら、人がそこに、花を花とし、月を月とする表象の秩序を再び作り出すのはなぜか、それはどんな秘密の機制によっているのか、と問うのである。彼はいわば芭蕉が芭蕉の「夢」の中で問うことのできなかった問いを問うのだといってもよい》

 

 私には中上が自らの漂泊で問うたことが芭蕉の問うことのできなかったものであるとは思えない。花鳥風月を表象の秩序としてしか芭蕉がとらえていなかったとしたなら、はたして虚実論を語りえただろうかと反問したい。逆に中上が芭蕉について批判すればするほど彼は俳句に近づいていたのではなかろうか。

 

 《 時は冬よし野をこめん旅のつと

吉野へは私も行った。

私が眼にしたのは花の吉野ではなく、セイタカアワダチソウが群生した秋の吉野である。その根に毒を持ち他の植物を枯らして群生する草は、夜にあわあわと、昼に粘る黄色のハナをつけ、気味が悪い。

<造化にしたがひ、造化にかへれ>と言う芭蕉は、この吉野のセイタカアワダチソウを何と言うだろうか、風雅に反し、花鳥風月に入らぬものと、見て見ぬふりをするのだろうか? と今思う。》(中上健次『夢の力』「鳥獣に類ス」より)

 

 このエッセイは右のように中上にしては珍しい疑問の形で終っている。いつも不必要なほどに強く言い切る彼の文体が、吉野を思った時に微妙に揺れたのである。彼はこの一文を書いたことでかえって吉野に心を引きとめられていたのではないだろうか。

 風雅を解さないものは鳥獣の類だという芭蕉の言葉に、それなら自分は鳥であり獣なのだと激しく反応した中上は、それゆえに花鳥風月とは何なのか、と深く考えることになったのである。 

 中上健次が「鳥獣に類ス」でこう書いた五年後、山本健吉と訪れた吉野の桜に彼はどんな感慨を持っただろう。

 

 《物語の場所であると思うんです。モノガタリ、つまり、モノという霊魂と、カタリ、カタルという原初からある人間の衝動のようなものの、錯綜する空間、場所ですね。単純に言うと、古いかもしれませんが、吉野に来て、やはりなんかありがたい、そんなことを考えたんですけど。》(中上健次・前登志夫との対談「文学の場としての吉野・熊野」より)

 

 自分が吉野のセイタカアワダチソウに感じた生命の邪悪な一面を芭蕉ならどうとらえるのだろうという疑問。そしてその対極に吉野の桜があるという直観。そんな中上をまるで運命の使者のように吉野の桜へと導いた山本健吉という存在は、中上の問いに答えるために現代に芭蕉が甦ったかにさえ見えるのだった。

 数奇といえば大げさであろうが、しかし山本と中上との出会いは今から見れば、なにか因縁めいて宿命的な匂いがする。

 これまで私にとって山本健吉という人物はひとつの謎であった。その「挨拶と滑稽」「純粋俳句」などの俳句評論と、晩年の『いのちとかたち』との間にある大きな距離の意味が十分に理解できなかったのである。中上健次との接点はその距離の中のどこかにあるようにも感じられた。

 戦後間もない時期の俳句評論で山本が強調した、季語が二義的な約束に過ぎないとする主張と、中上がその文芸エッセイ「鳥獣に類ス」で激しい言葉で疑問を投げつけた芭蕉の風雅、花鳥風月というものが、どのような内的プロセスを経て、「吉野の花見」に到達したのか。

 中上が吉野に毒づき芭蕉に毒づいたことは、芭蕉の風雅の本意を知りたかったからだろう。どれほどそれを自覚していたかは疑問だが、山本健吉に誘われて以降、ころりと吉野礼讃になったのにはそんな下地があったからだと思う。私は彼が吉野のセイタカアワダチソウに自分自身を重ね、自らを鳥獣に類すと呻いたその直観に彼の本質を見る思いがする。たとえその後に吉野の花見を愉しむようになったとしても、彼の本質はそこにあったはずだ。中上は、セイタカアワダチソウに直観した「いのち」の実相を、山本の手引きで吉野の桜に遅ればせながら発見したのかもしれない。

 

 中上が直観した「いのち」の実相というものを考えるとき、私は彼の「路地のサーガ」の中で特に『千年の愉楽』を取り上げたい。この作品はこれまでの私小説の概念を打ち砕く画期的な作品であった。人によってはこの作品を私小説とは認めないかもしれない。しかし、私はこれを常軌を逸した私小説であると考えている。

 『千年の愉楽』は紀州新宮市の「路地」という時空間に無数に存在する「私」を「オリュウノオバ」という語り手を通して描いてゆく作品であり、空間・人物・遠近法の全てにおいて一人称文学の座標を崩す構造を持ちながら、なお「私」が一貫して主題となっている稀有な作品である。欧米の文学とは異なる「モノカタリ」の歴史が作品に結実している。そして中上は、俳句も私小説と同根だと言うのである。それは、俳句はこの国の私文学の流れの中にあるものであり、一人称世界でありながら季語という虚点を通して虚実を往来する文学であるからだ。 花鳥風月は虚実を往来する「私」であり、それは「花である私」「風である私」「虫である私」であると同時に、それは「死」でもある。この思いは、俳句の一人称を現代から、元禄期の虚実論を貫き、中世の浄土思想を駆け抜け、はるか古代にまで運んでいってしまうものなのではないか。

 おそらく中上は俳句や古典文学をそれほどつっこんで勉強したのではないだろう。しかし彼の直観は、山本健吉が長い研究を経てたどり着いたこの国の文学の「いのち」への思想に非常に近いところを直撃したのである。まるで『千年の愉楽』の「非業の若死にを遂げる中本の高貴にして澱んだ血統」が自分に向けた予言であったかのように、彼に残されていた時間の少なさに追われ、結論を言い急ぎ飛躍の多い独特の文体で彼は、この国の文学の「いのち」と「かたち」を語ろうとしていた。

 そんな中上健次が折口信夫の『死者の書』に強い関心を持ったのも当然である。

 彼は「岬」以降、孤独な自我というようなテーマに別れを告げ、熊野という風土の中に「私」を探し始めた。「私」という虚実、その虚実の裏にある大きな自然。そこに至り、中上は、私小説とは俳句と同じだと言ったのである。

 中上は「物語の系譜」の折口信夫の章でこう言っている。

 

 《『死者の書』は単に折口信夫個人の傑作でなく、「文学」と「物語」を峻別出来ないほど愚鈍な感性の持ち主たちによって占められた近代百年唯一の、真に読むに値する傑作である》(中上健次「物語の系譜 折口信夫」より)

 

 「近代百年」。そこに折口、山本、中上の反時代的系譜が成立しているのである。中上が言う《折口は、時間の流れを無視している故に、右から左に書かれ読まれるという物語の流れる時間そのものをまず無視しているのである》という点は、『千年の愉楽』にも当てはまることだ。

 ただ、中上は折口よりも、良くも悪くも小説家であった。『死者の書』と『千年の愉楽』の違いはそこにあり、それだけだとも言える。言霊は三次元の時空を必要としない。遠近法による擬似的な三次元空間などは、欧米人にとってはありがたいものであるかもしれないが、東洋の画家や詩人にとってはかけらも本質的なものではなかった。

 

 ここまで論じた中で私は、中世という時代を大きな転換点としてきたが、山本健吉もまた《日本文学の最大の転回点は、連歌・俳諧の発想の成立に在る》(『古典と現代文学』)と言うのである。更に《隠者的な社会外の民として生活する伝統が、私小説的な発想を主軸とする今日の文壇にもなお生きているかぎり、長編文学はやはり生まれにくいであろう》とさえ言っている。「社会外の民」が「うた」の聖性をになうことによって、王朝の「キケロ風の文学」が「礼を知らぬ文学」と変容し、力強い生命力を持つに至った。後鳥羽院の『新古今集』は崩壊する神聖帝国へのオマージュであり、「キケロ風の文学」の最期の華であったのだろう。

 熊野はまた、その後鳥羽院の怨念を深く沈潜させた場でもある。熊野は滅びの中で、より聖性を強めたともいえる。

 中上はその熊野を現代の白昼に引き出そうとした。それは明治以降圧殺され続けてきた「うた」「モノカタリ」を熊野の現場において復興させようとする企てであった。孤独な闘いと思っていた中上にとって、山本との出会いは大きな援軍に思えたことだろう。小説家である中上は、俳句ではなく自らの「路地のサーガ」においてそれを表現しようとした。彼の『千年の愉楽』こそ中上にとっての『死者の書』であったはずだ。

 

 

七、熊野と花鳥風月

 

 私たち日本人の多くは信仰ということをあまり真剣に考えないと言われるようだが、自然に対する思いは疑いなく信仰と呼ぶべきものである。

 人は山へ還る。

 日本人にとって山は隠国であり、自然そのものである。人は自然から生まれ自然の懐に還る。それは山なのだ。山に象徴される宇宙なのだ。修験道では峰入り修行によって人は擬死と再生を体験すると考える。その心理はおそらく太古からこの国にあったのだろう。そして中世に大きな文化的転換点があり、それまで民心を支配していた非合理的な聖空間が権力構造の中で隠蔽された。その変動期に一遍のような聖が登場するのも必然だったのかもしれない。

 中上健次が熊野の風土を見つめることで、自然と人とのぬきさしならない関係に気づき、花鳥風月と死との関係こそモノカタリの根源であると考えるに至った水脈は、中世に地下に潜行した自然と人との聖空間が伏流水となって現代にあふれ出たものであるように思えてならない。

 

 五来重はその著書『熊野詣 三山信仰と文化』の中で、熊野に古墳が存在しないことを指摘している。なぜ古墳がないのか、なぜ熊野では鴉が神聖な存在なのか。そこに風葬・鳥葬の習慣が古代にあったことを想像できるのである。人の魂は山へと還る。その山こそ熊野であり、死が穢から聖へと転位する空間がある。

 

 折口信夫の『海やまのあひだ』という歌集の名は山本健吉が言うように「悲しい祖国日本の象徴」なのだろう。平地の少ないこの国土と、そこに生きる人々は、まさに「海やまのあひだ」なのであり、そして熊野は典型的な土地のひとつである。

 中上も熊野をそのようにとらえていた。熊野を理解するためには熊野の地で考えねばならないと、平成元年に熊野大学を立上げそこで月一回、山本健吉の『いのちとかたち』をテキストにして一章ずつ読み、解説をこころみた。それを日本論であると言った。

 日本論とは何だろう。それは問いかけであると思う。あるいは徹底した懐疑とも言えようか。これまでの文学史や民俗史を解体するほどの懐疑が必要なことを山本は『いのちとかたち』で言おうとしたのであり、中上がそれを受けて激しいほどの問いを私たちにぶつけているのだろう。近代以降形成されてきた日本に対して、それへの懐疑として瘴気とも呼ぶべきものが熊野にはあることを、二人は知っていた。熊野とはこの国の容を象徴したものであり、同時に実在でもある。山本は熊野の象徴性に視点を置き、中上は実在に視点を置いたとも言えるのかもしれない。

 

 

八、花鳥風月の原風景

 

 中上は芭蕉の「風雅」について否定的な発言をしたが、その後山本と出会い、『いのちとかたち』に出会い、吉野の桜に出会うことで、造化に対する考えを大きく変えたのに違いない。

 その『いのちとかたち』の終章で山本は雄弁に芭蕉論を展開している。さまざまな角度から日本美というものの本質に迫ろうとしたこの書は、熊野の那智滝に始まり、芭蕉論で終る。その終章において取り上げられた最も重要な芭蕉の言葉が、「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」である。

 芭蕉の求めていたもの、日本の芸術家たちが求めていたものは、目に見える「かたち」ではなく、見えざる「いのち」であった。造化とは、限りなく生滅変転する森羅万象であり、そのうつろいそのものであったと山本は考える。つまり造化とはその存在性ではなく「いのち」のきらめきのことなのである。熊野という聖地において擬死と再生を繰り返す山岳信仰は、自らをうつろう森羅万象の光の中に溶け込ませることでもあろう。それを山本は日本美の源ととらえる。それは「うた」の源でもあることを私は本論で述べてきたつもりだ。言い換えれば、花鳥風月の原風景としての造化、そのことを山本は訴えたかったのだろう。また今の文学の世界に抜け落ちている風景でもあると言える。

 私は日本美というものを礼讃しようとしてこれを書いたのではない。「うた」の源とはなにか、そのことを俳人として考えてみたかったのである。山本健吉が積み上げて来た思想と、中上健次が熊野に直観したものとが、世代の違うこの二人の晩年において出会い、短くはあったが激しく発光したことの意味を考えてみたかった。

 しかしこの二人の出会いが一瞬の輝きを示したあと、少なくとも俳句の世界でなんら継承されていないのはどうしたわけか、とも思う。私はこの論であえて俳句について特に具体的に論ずることを避けた。なぜならそうすることが私にとって重要な視点となるという直観があったからだ。

 俳人である私は、句帖を閉じ、風の光を見て、風の声を聞かねばならない。遊行の果に、野に屍を捨てよと叫んだ一遍の声に耳を傾けねばならない。客観写生とか、季語・季感をうんぬんする以前に造化の意味を自らに問う姿勢を持ちたい。詠わずにはいられない心の奥底にひそむ、いにしえの闇を見つめたいのである。

 花鳥風月の原風景がそこにあると思うにつれ、私は生きることの意味を問い詰める姿勢のない文芸の存在意義に疑問を持つ。折口信夫も山本健吉も中上健次も、見方を変えれば愚かしいほどに生きることの意味を問うてもいる。裏返せば「死」を問うてもいるのである。それゆえ中上のセイタカアワダチソウがあるのである。そして魂の還るべき熊野の山、海があり、はるか補陀落が見えてくる。その視線の先には一遍上人の遊行のうしろ姿さえ見えるように思うのである。

 

 《造形のさらに彼方に、一瞬であってもいい、「いのち」の最高の輝きを得たい》(山本健吉)

 

 

※『文學の森 2006 夏 02』(文學の森社)収載 (2006年7月)

 

 

 

 

 

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