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言語の風狂 その後の寺山修司俳句論

 

                       五十嵐秀彦

 

         

 

(はじめに)

 

 前作の「寺山修司俳句論―私の墓は、私のことば―」(『現代俳句』平成十五年十二月号)の発表後、いくつかの批判をちょうだいした。その内容を大きくまとめると論の後半部に述べた「反メモリアリズム」「非連続性」「私性の超克」について、論旨に飛躍が多く理解しにくいという指摘が多かったことと、他に少数ではあったが結論部は写生俳句批判なのかという質問も受けた。確かにどれも紙幅の無さで早口に述べた部分であると言えば言い訳じみているだろうか。

 

 一年余の時が過ぎて、あらためて思うこともある。この中で私が一番興味を持ち、かつ前作で言い足りないと感じていたものは、「反メモリアリズム、非連続性、私性の超克」だ。今回、前作への補稿のようなかたちで続編を書こうと思い立ち、この三つの柱をひとつひとつ検証しようと思ったが、実はこれらは同じ核に収斂する事象と言うべきものなのである。そう思うと、これらをバラバラに論じても途中から同じ内容になってしまいそうだ。だから論旨に明解さが欠けてくるかもしれないが、今回は少々冗漫に書きついでみたい。なお、前作を読んでいなくとも、独立して読みうるように考慮したつもりでいる。

 

 

(一)メモリアリズムについて

 

 寺山がしばしば使った「メモリアリズム」という言葉は直訳すれば記録主義となるが、寺山自身は『戦後詩』の中で次のようにそれを使っている。

 

 《日常報告記録(メモリアリズム)にひたりきった歌人たちの「月並詠」のなかにあって、こうした塚本邦雄の歌は、つねに存在の核心をまさぐりつづけていた。》(寺山修司『戦後詩』より)

 

 日常報告記録にメモリアリズムとルビを振ったのは少々寺山的に奇を衒った感じもする。ようは日記的な文学とでもいうべきことだろう。もともと日記と文学とは古来あまり区別のないところで存在してきた。日記文学から私文学が生まれてきたと思われるところさえある。その伝統が、俳句や短歌などの伝統詩に色濃く継承されている。俳句や短歌で、たとえば人事的な作品に出会ったときには、読者はそれを作者の体験として受け止めがちなのではないか。肉親の死や、あるいは結婚とか離婚とか、そういう作品を作者の日記的な視点として私たちは読んでいる。俳句では、「俳句とは一人称の詩だ」という。だから「われ」という言葉を不用意に使うなと指摘されることさえある。そして一人称の文学とは日記的な事実に根ざした作品という受け止めかたをされるのは避けられないだろう。

 それを寺山はメモリアリズムと呼んでいるのだ。彼は日常雑記的な生活詩を嫌った。いや、日常雑記的な生活詩であることを疑わない俳人たちを嫌ったのだ。

 そのメモリアリズムと同じ次元に「連続性」もあるようだ。連続性は日常性であり、非連続性とは非日常性のことと言えば乱暴すぎるだろうか。私たちは通常は日常性の中に疑問を持たずに生活している。その中で文芸創作活動もするわけである。同時に、創作は日常に一線を画するものであると言うこともおそらく異論のないところだろう。ただ、俳句を日常雑記的な文芸として創作をし続けていると、日常の次元と創作の次元の境界が曖昧になってしまう。自分の周辺に起こる、あるいは存在する、あたりまえのことをモチーフとして創作する。それは一見日常性の中にあるように見えて、俳句という詩となったときに異なる次元を獲得しなければならない。そうでなければ、その句は言われるところの「報告にすぎない」句となってしまう。日常性を信じきって、身辺雑記的俳句を報告レベルで作る。そこには人生の連続性というものへの盲信がある。昨日があり今日があって、必然的に明日があるという思い込みに創作に際して浸りきっているから、その観念に凭れかかった作品が生まれてくる。

 寺山は句集『花粉航海』で、そうした連続性への思い込みをあざわらっていたようにも思える。寺山修司という名の架空の高校生俳人を作りあげ、そこに虚構の肉体を与えた。読者はそれを作家寺山修司の事実としての過去と受け取りがちだ。それを知っていてあえて寺山は読者を罠にかけようとした。まるで連続性を疑わない読者の俗物性をあざわらうように。

 

 《私は手でさわれない過去の事象を証拠物件にして現在を推理しようとする歴史主義者たちを信用しない。「行く」という行為は在りうるが「帰る」という行為はありえないのだ。》(寺山修司 『戦後詩』より)

 

 しかし寺山が連続性を非難しているのは読者に対してではない。読者は騙されるべくして騙されているのだから、作家としては作戦どおりなわけで、してやったりとも言うべきだ。非難されるべきは読者と一緒になって連続性を信じきっている作者なのだ。

 たとえ句の生まれる背景がどうあろうと、一句は創作された一篇の詩である。それはいかなる日常性からも解放されている。一見、身辺雑記的な句であっても、それは創作なのである。作家はそれをひそかに意識していなければならない。寺山が非連続性をあえて主張するのはそういうことではないだろうか。書き換えられない人生はないと彼が言ったように。

 

《「つまらない人生」は存在しなくても「つまらない詩」は存在する。》(寺山修司 『戦後詩』より)

 

 そう、「つまらない人生」なんてない。しかしそういう人生を日常報告的に詩にしても、立派な詩になってくれるわけではない。報告は五七五であろうと五七五七七であろうと、しょせん報告にすぎない。記録にすぎない。すぐれた詩にするためにはメモリアリズムを超えなければならないのである。

 

 枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや

 

 

(二)俳句の私小説性

 

 反メモリアリズム、非連続性を主張しながら寺山の俳句は実際にはどのようなものであっただろうか。その対立軸に向かって大胆に形而上学的前衛句に走ったか。もちろんそうではなかった。言い方を変えれば、寺山俳句ほど私性の色の濃い作品もない。それは俳句に限らず、例えば小説『ああ荒野』がボクシング小説仕立てとなっていることと、寺山がボクシングをやっていたことや、数多く書いた随筆における母親との相克や「家出」というテーマの主張、競馬を題材とした諸作、あるいはCM出演などなど、彼が自分自身を創作のモチーフとしていた「事実」の数々。

 寺山が仕掛けたのか、あるいは寺山自身が私性という文芸の罠にはめられていたのか、いずれにせよここに仕掛けられた罠がある。文学の私性は一種の迷宮でもあるだろう。「私」と書いたその瞬間に作者は罠に落ちている。ただそこに、文芸に魂を売り払ってしまったという自覚があるかどうかが作者の器量を決めているとも言えないか。彼がさかんに自伝を書き替えたことから分かるように、常に私性の罠を自覚していた。書くという自己表現にめざめたその時から寺山はそのことに気づいたのだろう。

 

 歌人塚本邦雄との対談「ことば」で彼はこんな発言をしている。

 《実物を持ってくることのできない言葉もいっぱいある。言葉にしかないもの、つまり「茶わん」とか「コップ」とか「新聞」とか「テーブル」という言葉ではない、観念としての言葉があるわけです。》

 《人間の個人の記憶というものに対する、ある種の嫌悪感みたいなものがあって、記憶を自在に自分が編集したり管理できたりするようになったときに、はじめて人間は自由になるのではないか、要するに、歴史によって人間を解放するというのはまったく錯誤であって、その根源では記憶から人間を解放するということが、ある意味での自由への道ではないかと思っていたわけです。》

 《「日記にうそを書く男」というのは、塚本邦雄論を書くときの非常に重要なポイントになるね。》

 

 「日記にうそを書く男」。寺山は対談相手の塚本のこととしてこの言葉を使っているが、これは同時に自分自身のことでもあった。そして塚本もまたこの対談の中で、《登場人物はすべて「私」であるという考え方をしていいわけだし。私小説的に「私」を書くふりをしながら赤の他人のことを書くこともあるだろうし。》と言っている。

 長い日記文学の歴史や、短歌や俳句などの短詩の歴史を見ると、私性というものが私たち日本人の文学的な遺伝子なのかもしれない。私小説というものが短編小説の中で独自の位置を占めていることは、とても日本的なことのように感じる。明治維新後、西欧から文学(literature)・小説(novel)という概念が入ってきても、それが私小説というかたちで咀嚼されたのは当然のことだったのだろう。ときには、作家の人生それ自体が作品化し、作品単独では成立しないような例も見受けられる。たとえば俳句では、山頭火や放哉のような漂泊の俳人の作品は、作者の人生も合わせて鑑賞される傾向がある。作家自身とその文学世界を同一のものとして受け止めたいという読者側のわがままもあるようだ。そんな日本の文学の傾向を嫌い、私小説は文学ではないといわんばかりの言い方をする人もいる。だがそれは、かつての桑原武夫の第二芸術論と大差のない西欧礼賛の文学観であり、私はあまり意味のある批判とは思えない。私小説的な私性というベクトルを日本の文学が、小説であれ、現代詩であれ、伝統詩であれ、ぬぐいがたく内包しているのであれば、私はそれをまっすぐに見つめてみたい。

 車谷長吉は「私小説について」という随筆の中でこんなことを言っている。

 

 《私小説であろうと何であろうと、小説というのは「虚実皮膜の間」に漂う人が人であることの謎を書くのが本筋》

 

 《ほら話にはほら話の面白みがあり、そのほら話が何かの隠喩、あるいは象徴になっている時、意外な人の世の真を伝える場合もあるのである。して見れば、事実を有りのままに伝えるだけでいいということにならないし、またその必要もないのである。》

 

 《見た目には日常の瑣事ではあっても、その瑣事が立ち現れて来たことの根源を問うて行けば、やがては日常の底に隠された得体の知れない不気味なものに、じかに触れることになる。》

 

 《私の中には人間存在の根源を問わざるを得ない、あるいはそれを問うことなしには生きては行けない不幸な衝迫があり、その物の怪のごとき衝迫こそが、私の心に立ち迷う生への恐れでもあった。》

 

 また、中上健次は『鳥のように獣のように』収載の「小説の新しさとは何か」の中で、もっと直截に私小説と、さらにその俳句との関連について述べていて、これは非常に重要な発言である。

 

 《短篇とは、私小説である。私小説はコードの破けたコードと思える。私小説は、コードを考え続けているぼくには、新しい小説のスタイルに見える。そして、私小説=短篇は、死、死穢を一等低い音として、鳴らしているのに気づくのである。いや死穢の音が、中篇や長篇よりも強く鳴る。そして短篇とは、花鳥風月の側のものである。》

 

 《短篇が、死穢を踏まえてあると言うなら、俳句もそうである。季語、それがつまり花鳥風月であるなら、それも、死穢の形を代えたあらわれではないか?》

 

 本当に起きたことだけで作品を書いているような私小説作家は作家ではない。私小説は車谷が言うように「私」小説なのである。「私」という虚を描いてこそ私小説は成立する。私は俳句もその点で同じだと思っている。「私」という虚を詠うのが詩であろう、文芸であろう。中上が言うように「私」とは「死」であり、それが「花鳥風月」でもある。その「私」を読みまちがえると俳句を記録主義的な文芸だと思ってしまうことになる。

 俳句は「私」でいい。しかし「私」とは誰なのか。俳句作家はそれを常に問い続けなくてはならない。中岡毅雄は『俳句』平成十六年九月号「現代俳句時評」で、若手俳人のアンケート結果について論じながら、こんなことを書いていた。

 

 《「語り手=作者」という暗黙の了解があるから、「読む」という行為が成り立っているのである。従って、俳句の「私小説性」は、必ずしも短所と考える必要はなかろう。十七音の制約・脆弱性を補強する役割を果たしていると考えれば良いのではなかろうか。》

 

 さらりと書いてしまっているが、実はここにとても重要なテーマがひそんでいる。おそらく中岡氏も気づいていることであろうが、作家が作品を通して自分を見つめるとき、裏も表もない記録などというものはありえない。それは幻想である。あるいはそう思い込むことで安心を得たいという老人的な姿勢だ。晩年の趣味として俳句で遊んでいる人たちはそれでもよい。しかし、俳句の現在になにかしらの自己表現を作品の形で投げ出している作家が、記録主義に埋没し「私」を疑うことのない創作姿勢でいるなら、俳句は文学となりえないだろう。

 川名大は「寺山修司、その俳句の成果」で寺山の特性について次のように見破っている。

 

《寺山は俳句は私性の文学であることを強く自覚していたからこそ、作品における仮構のリアリティの普遍性に賭けたのであり、それにふさわしい自己表現の道を短歌に求め、さらに演劇に求めたのだろう。別の言い方をすれば寺山は加藤郁乎の『球体感覚』のように私性を払ったところから作品を発想しない才能だったということである。自己劇化の才能だったということ。『花粉航海』編集にかかわる自己劇化の理由の一つは、自己の人生の自己劇化の流れとして「青春俳句」でくくろうとした現われであることは、あの「あとがき」の「手稿」が自ずと語っていよう。》

 

 この把握は正しい。寺山はメモリアリズムや連続性の中の「私」を捨て、それを乗りこえた「私」を創作しようとし続けた。形而上学的世界は寺山にとって最も遠いものであったはずだ。川名も述べているように、寺山自身も、自らの文学の好対照として加藤郁乎の名を挙げている。どちらも私性の超克という点では同じ始点を持ちながら、寺山は加藤とは逆の方向へと駆けたのである。

 それは私という物語、物語という名の真実だった。

 

 目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹

 

 文芸こそ「五月の鷹」であった。自らを支配する文芸=詩という存在を血流のごとくいだきながら、短い人生のその短さを知りながら、寺山は走り続けた。あたかも全てを虚構に転換し、全てを真実に転生させようとでもしていたかのように。書き急ぎ、生き急いだ。

 

 《寺山修司にあっては、句も歌も、およそ自身の感懐を吐露するというようなものではありえなかった。彼は、句や歌を作ることによって、自身の感懐なるものを作りあげたのであり、場合によっては自身の物語、自身の出生の秘密をさえつくりあげたのである。》(三浦雅士「二重性の連鎖―寺山修司の言葉」より)

 

 裏町よりピアノを運ぶ癌の父

 

 

(三)寺山の「私」性

 

 《ぼくはどっちでもいいと思うんだ。文学史家的に、「いつ書いたものか」と推理することは、ほんとうは重要なことじゃないから。むしろ、いまつくって「高校時代の作品」として発表して、発掘された未発表作品、という話題を作るのだって一つのフィクションですからね。》

 

 対談「ことば」の終盤近くで寺山がこのような決定的発言をしていた。自分の句集『花粉航海』のトリックについて寺山自身がほのめかすように触れた発言である。まるで他人事のようなふりをして、白状してしまっている。対談ゆえに口が滑ったのかもしれないし、これもまた読者をミスリードしようとする彼の企みであったのかもしれない。

 この対談にはさまざまなヒントが隠されている。たとえば、「鏡」の反対語もまた「鏡」だ、「逆説」の反対語も「逆説」だという発言。これは興味深い。そうであれば「虚構」の反対語の「事実」も、実は「事実」という名の「虚構」でないとは言えない。また逆も成り立つだろう。

 

 《書斎から見ると雨の庭の、芝生の上を若いカタツムリが一匹這っています。じっとそれを見ていると、わたしの少年時代の友人たちの顔がさまざまに浮かんでくるのです。

 みんなやっぱり、暗い「家」のなかで、くすぶっているのだろうか。あるいは「家」を作りかえて、都市を軽蔑しながら、やさしく強い青年に成長しているだろうか! そうおもうと何か心に沁みるような芝生の青さが、詩人になろうとして、上野行の汽車にとびのった十年前のわたし自身をおもいださせます。

 やさしさは殻透くばかり蝸牛 誓子》(寺山修司『家出のすすめ』より)

 

 最後を誓子の句でしめているところはにくらしいほどうまいけれど、書斎から見える芝生の庭とは笑わせる。それは次の《詩人になろうとして、上野行の汽車にとびのった》という嘘を真にするための伏線だろう。

 自分の過去を書き替えると言うと文学的に聞こえるが、自分の過去を美化することは虚言癖の人間の常套だ。しかし又、文学とはそうしたものだ、とも言えるところに虚実の闇があるのである。

 寺山は私性を捨て切れなったのだろうか。たしかにそうとも言えるだろうが、意識的に私性を利用したようにも見える。寺山が私性に仕掛けた無数の罠を見ると、私にはむしろそう思えてならない。

 彼はそうした罠を「ユーモアと構想力」と言った。『花粉航海』にユーモアはあまり感じないが、構想力はすみずみまでみなぎっている。作者自身が架空の「寺山修司」となることで生まれた句集ゆえにその存在そのものが読者に向けてしかけられた罠なのである。彼は母親さえ罠にかけ、しまいには彼自身では制御できないほどの存在に母親を変えてしまうようなことさえやってしまったではないか。

 寺山は最後に俳句に戻ろうとしていた。それは本当のことだったのだろうかと今も不思議に思うことがある。角川春樹ほか多数の証言があり、三橋敏雄らと「雷帝」という俳誌を企画していたのも事実であれば、疑う余地も無いことだ。しかし、どうも私には釈然としない。あれほどまで「歌のわかれ」を宣言し、『花粉航海』で周到に作品時期を操作した寺山が、「やっぱり俳句にする」と言うことは信じがたい。それが事実であるとすれば、本意はどのへんにあったのだろうか。再び自伝を書き替えようとしたのだろうか。

 彼は自分の死期を知っていたはずだ。主治医に対して自分の余命はどれだけあるかはたずねなかったが、六十歳まで生かしてくれということは幾度も医師に言っていたという。であれば「雷帝」も長く続けられるものではないことを寺山自身が一番知っていたはずだ。そんなことを考えているうちにふと思ったことは、ここにも寺山の「ユーモアと構想力」があったのではなかろうか。中学時代、俳句を作るところから始まった寺山文学の最後は俳句でしめくくられるべきだというストーリーである。そこで世の凡百の俳人をあざわらうような大傑作を構想していたのかもしれない。

 実際、彼の罠は周到で、最終的に谷川俊太郎を証人として自分の死さえ虚構にしようとした(死後にパリから届いた寺山からの絵葉書事件)。全ては私性を超克した私性のためであったとも言えるだろう。だが本人が言うほどにはそこにユーモアは感じられない。彼のユーモアとは、こんなにもニヒルなものだったのだろうか。自分に対して残酷であることが彼のユーモアだったのだろうか。

 それを思うとき、寺山の淋しそうな表情の写真が心に浮かんでくる。ほんとうのぼくはどこにいるか、わかるものなら当ててごらん……。

 寺山修司が「寺山修司」を演技している舞台のそでで、迫り来る死を抱きかかえるようにうづくまり震えていただろう「本当の」寺山修司よ。

 

 《もともと、あらゆる物語は書かれつくされてしまっていたのである。これからの作者の仕事は、消すという手仕事でしかない。》(寺山修司『月蝕機関説』より)

 

 木の葉髪書けば書くほど失えり

 

 

(四)言語の風狂

 

芭蕉に有名な虚実論がある。それは許六編『風俗文選』に支考の文章として伝えられている。

 

 《風狂は其言語をいへり 言語は 虚に居て実をおこなふべし 実に居て 虚にあそぶ事はかたし》(『風俗文選』より)

 

 芭蕉は、俳諧には三つの品があると言った。それが《寂寞はその情》《風流はそのすがた》《風狂は其言語》であって、右の言葉はそれに続いて言われたものである。俳諧の「心・姿・言語」は「寂寞・風流・風狂」であると定義してみせたわけだ。そして風狂こそ言語の虚実であると言う。この伝統は私小説(私文学全般)にも脈々と流れている。中上健次が私小説は日本独自の文芸であるとした意味もそこにあるのだろう。

 虚実論は芭蕉のみではない。元禄期、芭蕉と同時代であった浄瑠璃作家近松門左衛門の虚実論もまたきわめて重要と思う。

 

《芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也》(近松門左衛門 「難波みやげ」発端抄より)

 

 近松の虚実論はいわゆる虚実皮膜論と呼ばれている。芭蕉の虚実論より具体的につっこんだ内容となっており、芭蕉の論を理解するためにも重要なテクストだ。

 実だけでもなく虚だけでもない。その間に芸術がある。それは結論部であり、その前に近松はわかりやすい具体例をあげている。その部分がかなり興味深い内容だ。実はリアリズム論さえそこにあらわれている。要約するとこんな具合になる。

 当世はすべてリアリズムを良しとする(《実事によくうつすをこのむ》)風潮だ。舞台に立つ家老役の俳優は現実の家老らしい演技をすべきだという意見が多い。これは一見もっともなように見えるが、本当に家老らしい人物を舞台に立たせて芸が成立するのか。そもそも本物の家老が顔に紅を塗ったりするか。芸というものは現実を映すものではない。芸とは虚実の皮膜に存在するものなのだ。

 

 《虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也》

 

 これが元禄時代の発言であることを思えば、文学の真はこの時代にすでにしっかりと認識されていたことになる。しかも元禄文学の重要性は、これまでの特権階級の専有物ではなく、大衆がこれを共有したという点だ。大衆を相手にした芸術家が虚実の皮膜のうちに創作活動をしていたのである。芭蕉もそのひとりであった。

 しかし、現代の俳句はどうだ。

 虚実というものを創作の裏にかかえている俳人は多いようには見えない。その中で寺山ほど虚実を前面に出した作家も珍しいだろう。それゆえ、常に異端的な印象で語られがちだ。けれど私はそんな寺山に伝統の影を見る。彼が「天井桟敷」で世間をあっと言わせた裏に、芭蕉の、近松の、虚実があったのではないかと思うのだ。

 俳句の「私」とは、記録ではないと考えた寺山は、その点では芭蕉の俳句観に近いようにも思う。つまり寺山が自分で書き替えた自伝にもとづいて『花粉航海』を創作したことは、芭蕉の言うところの《虚に居て実をなす》と同じことではなかろうか。

 彼は手触りのある実体感のある虚構を好んだ。形而上学的な観念の遊戯には最も遠い作家だった。彼にとって「私」とは可能性のことであり、事実の残骸ではなく幻想の破片でもなかった。けっして実にいて虚をなすような「私」ではなく、虚にいて実をなす「私」であった。可能性としての「私」はメモリアリズムからも連続性からも解放されている。メモリアリズムと連続性の中でしか「私」を語れない作家は事象にふりまわされているだけで、虚を見つけることはできない。寺山は俳人達にむかってお前が言う「私」とは誰なのか、と問い詰めているのである。写生という美名のもとに虚実の狭間という闇から目をそらして事象にしばられた絵空事を事実として句にしていることに、彼はあきれていたのだと思う。彼にとって「歌のわかれ」はそうしてやってきたのだろう。

 

 電球に蛾を閉じこめし五月かな

 

 虚構の人・寺山修司と呼ばれることもあるようだが、それは必ずしも正確な言い方ではない。何度も言うように文芸に虚構は当然なのであって、肝心なのはその虚構の質である。

 寺山の作家人生は俳句に始まった。本人はそのしめくくりも俳句で終わらせようと思っていたようだが。しかし、それはかなわなかった。彼の遺稿に、一九八二年九月の朝日新聞紙上に発表された詩「懐かしのわが家」がある。この詩について、谷川俊太郎はこの一作をもって足りるほどの傑作と呼んだ。寺山は最後の最後まで、私性の表現をつらぬき通したのだろう。

 

   「懐かしの我が家」

 昭和十年十二月十日に

 ぼくは不完全な死体として生まれ

 何十年かかかって

 完全な死体となるのである

 そのときが来たら

 ぼくは思いあたるだろう

 青森市浦町字橋本の

 小さな陽あたりのいい家の庭で

 外に向って育ちすぎた桜の木が

 内部から成長をはじめるときが来たことを

 

 子供の頃、ぼくは

 汽車の口真似が上手かった

 ぼくは

 世界の涯てが

 自分自身の夢のなかにしかないことを

 知っていたのだ

 

 私性を超克した「私」性、メモリアリズムと連続性から解放された「私」性。同時に「虚」としての「私」。「私」の虚実を武器として表現を貫き通した寺山修司こそ言語の風狂を生きたのである。

 

 《そもそも、詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。》(芭蕉 支考『二十五箇条』より)

 

 《見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。》(芭蕉 『笈の小文』より)

 

 

(五)死生観

 

 もう少し元禄期の文学を見てみたい。芭蕉の虚実観には仏教の影響が強いと言う人もいる。具体的に言えば心経の「色即是空空即是色」がそれにあたるだろう。これは芭蕉に限らず古来日本文学に底流する思想でもある。

 近松門左衛門の虚実皮膜論にも濃厚に仏教思想の影が見える。日本文学の虚実は「色即是空」であるとすれば、「実」は「色」であり、「虚」は「空」である。そこで話しは少し横道にそれるが、仏教における「空」とはサンスクリット語でシューニヤといい、意味は数学上の「ゼロ」である。つまり「空」とは空虚を意味せず、価値のゼロ基点を意味する。それが「虚」なのである。

観念における真実と、事象となってあらわれる事実。生きるということがもとよりその両面を持つものだと仏教は言う。この虚実観をもっともはっきりと示した最初の文学者はおそらく西行であろうが、芭蕉時代の俳諧は必ずしもその流れにはいなかったのではないだろうか。そこに芭蕉が虚実の楔を打ちこんだとも言えよう。

 仏教の「空」と「色」の世界観、あるいは死生観は日本人の精神の根底に常に流れてきた。元禄期の芭蕉や近松の虚実論もその世界観の上に成立していたはずだ。彼らが「虚」と言うときにその裏には「空」があり、「実」と言ったときには「色」がある。芭蕉は虚実をさまざまなシチュエーションのもとで発言している。相手に合わせて説いているところも見え、時には虚実の意味が逆転しているのではないかと思えるものさえある。しかし、許六の『風俗文選』に採用された芭蕉の虚実の言は、あきらかに「空」「色」である。それに対して同時代の近松の虚実はより近代的な虚実に近いものである。演劇という具象的な世界にもとづく理論ゆえにそのような傾向を示しているのかもしれない。しかしこの二人の虚実は実のところ通底している。大衆を相手にしている中で伝統的な虚実観はよりドラスチックに語られ始めたとも言えるだろう。

 寺山自身は気づいていなかったかもしれないが、寺山の「私」観にも仏教の影響を見ることができるとさえ私は思っている。寺山文学に通奏低音のように無常観を聴き取るのは無理があるだろうか。

 《ぼくは汽車の中で生まれた》と言った寺山は自分自身を必然の存在と思うことができなかった。それは二十歳にして一度は死を覚悟し、その後も終生死の影とともに生きた人間だからなのかもしれない。

 

 《死ぬのはいつも他人ばかり》

 

 彼が好んだ言葉であり、この言葉の裏には自分の生をかりそめとしかとらえられない深い絶望がある。

 二十歳の時一度は去った死神が、のちに肝硬変という重い病を持って徘徊しはじめた。寺山の肉体は既に決定した死を内包したものであった。それは寺山に限らず誰にとってもいずれはおとずれる現実なのだが、大半の人はそのことをつきつめて考えることなく過ごしている。いずれその時は来る。今は考えることではない。それが健康な人の思いだろう。現代人は特に死との距離を遠く置く術にたけている。昔はどうだっただろう。おそらく寺山と同じように死がとても身近なものであったのではないか。

 その思い、不安は、仏教という形で古くから社会のシステムとなり、揺れ動く魂を支えてきた。文学もまた同じ文脈の中にあったはずだ。

 仏教では「空」というゼロ基点があり、存在は常にゼロ基点に回帰する。それならば今ここにいる私は、常にゼロとの距離の中に点として位置しているのであって、過去はどのようなものでもありえたのだ。

 

 《書き替えられない過去はない》

 

 それを、裏も表もなく過去も現在も未来も、私は私なのだという連続性を疑うこともなく、それを創作の姿勢としているような俳人の存在は、寺山にとっては笑うべきことだったのであろう。

寺山は、井伏の《花に嵐のたとえもあるさ/さよならだけが人生だ》が好きな詩だと言った。正直な話しであろう。寺山にとって創作は常に「花に嵐」であったのだ。

 

《密教の世界へ入ってゆくには、言語だけを杖にすればよい。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終はりに冥し」(『秘蔵宝鑰』)こうした無常観が、生と死とのあいだの地平線をくもらせてしまっている人たちでさえ、その彼方をたずねるには、死んだ母の帯一本ほどの細い道でもあれば救いはある。》(寺山修司「空海」より)

 

 秋風やひとさし指は誰の墓

 

 

(六)生の偶然性

 

 寺山: 三島さんが賭博をおやりにならないというのは、反悟性的とお考えだからです?

 三島: 偶然というのは嫌いですからね。偶然が生きるというのは、必然性がギリギリにしぼられているときだ。たとえばA男とB子が数寄屋橋でバッタリ会う。「やあ、お久しぶり」「よく会えたね、ここで」というのは小説じゃないんですよ。ところが芝居だと舞台の両側から出てきて「やあ、珍しいとこで会ったね」「あなた、会いたかった」って言ったっておかしくないんですよ。芝居は必然性のワナですよ。

 寺山: 必然性というのも、偶然性の一つです。ぼくらは偶然的に宇宙に投げ出されたのだ、とは思いませんか。

 三島: 思わない。つまり、必然性が神で、芝居のスピリットなんだよ。だから、ハプニングというものを芝居に絶対導入したくないんです。というのは、芝居は必然性があるから偶然性が許されているんで、ギリギリの芝居の線だと思う。

            (寺山修司・三島由紀夫「抵抗論」より)

 

 世界が偶然であるなら芸術表現も偶然であってよい。いやあるべきだという考え。寺山はそれを演劇で最も顕著に表現した。今や伝説となった市街劇である。演劇小屋の中に飼い殺されたハプニングではなく、ハプニングそのものの中に演劇を投げ込むような試みであったものと思われる。

 そういう寺山の偶然性への欲求から見て、俳句や短歌はどうであったのか。

 対談の中で三島が述べた「芸術=必然への欲求=フォルム」という論に寺山は反発している。俳句から始まり短歌へと移り、その後歌との別れを宣言し演劇を中心とした活動を展開していった寺山の軌跡を見れば、定型詩は三島の言うところの必然の側にある表現であって、偶然性を表現するには不向きだと考えていたと想像するのはむずかしくない。

 寺山はハプニングということにかなり執着していたようだが、これを事実と虚構という視点から見なおすとどうなるだろうか。事実と虚構は一見あい反する概念のようでいながら、作者による必然である虚構が、偶然性に支配された事実と衝突した時に、そこに事実でも虚構でもない新しい地平が開けると考えることができる。寺山は定型詩を必然の側に位置するものとして一度は捨てたが、後年にそこに未練を示したのは演劇を通して虚実ということを深めた結果だったように私には思えるのだ。つまり演劇のハプニングを通して文芸の虚実についてあらためて思うところがあったのではないか。

 事実は共同の幻想であり、虚構は作者個人の幻想である。いずれも幻想なのである。幻想は培養もされるし、変化もする。突然変異もする。

 寺山と三島との対談の中では、寺山が偶然派であり、三島が必然派であった。寺山はあらゆる局面で偶然性を重視した。偶然を重視する寺山は、それゆえに時に攻撃的になり、時に逃亡もする。いずれにせよ一所にとどまることがない。反面、三島は自らの必然にとらわれるゆえに自死することになったのかもしれない。寺山は逃亡はしても自死することはありえない。寺山が偶然にこだわったのは、自らの逃れられない死の日を見つめていたからなのではなかろうか。三島には、なぜか自然死する自分という考えがなかったように思える。死もまた、自力にて制御されるべきものだったのだろう。それとは対照的に偶然ということに頼ることによって寺山は生きていたのだ。

 この対談での偶然性に関した寺山の言及は、その死への思いと無関係ではなかろう。十九歳二十歳にかけて死と直面した事実、「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉の裏にひそむもの、そして四十三歳で肝硬変を発病。

 生きるということの偶然性を主張しつつも、それを信じているというよりそう思いこもうとしていたようにも感じられる。不完全な死体として生まれ完全な死体となることは、それは必然なのだから、その必然性から目を逸らそうとしたのだろう。病気をかかえていた男が、死から目を逸らし続け偶然性にすがっていた。対照的に三島は肉体の健康を誇りながら、芸術の必然性を主張し、自死した。

 この比較は寺山が私性の超克を偶然性で裏打ちしていたことを証明しているようにも見える。

 

 わが死後を書けばかならず春怒濤

 

 

(七)質問者になりたい

 

 私は「寺山修司俳句論 ―私の墓は、私のことばー」を書き、平成十五年現代俳句評論賞を受賞した。発表後、多くのかたから感想や意見をいただいたが、中でも多かった意見は「非連続性」等についての部分がわかりにくいと言うものだったことは冒頭で書いた。また写生俳句を批判しているかのような結論部分にも疑問の声があった。

 実は「写生俳句」うんぬんについては『現代俳句』平成十五年十二月号誌上に載せていただいた受賞の言葉の中に本音を書いたつもりである。

 

 《写生ズラした虚構の多さに、つまり作者自身が虚構を意識できずにいる体の虚構に、うんざりしているのである。私を含め、今、多くの実作者は病んでいるのかもしれない。》

 

 現在の俳句状況は保守化しているとしばしば言われる。子規に始まった近代俳句は、自由律や新興俳句、モダニズムなどを経験しながら再び写生にもどろうとしているように見える。そのことの是非を論じるつもりはない。俳句は写生だと言うのならそれも良いだろう。全ては作品それ自体で自らの正しさを証明すればそれで良いのだ。私が言いたかったことは写生俳句批判ではけっしてない。言葉や文字で表現する行為はそもそも虚構を捨て去ることなどできないのだということを私は言いたかった。一人称であれ、客観写生であれ、虚を始点としての創作であることを言いたかった。それが寺山俳句に対するひとつの総括なのだとも思っている。

 写生も花鳥諷詠も根底に虚という存在の闇を持ち、またそれによって支えられている。《写生ズラした虚構》とはそのことに気づかぬ現在の俳句状況そのものへの批判であったつもりだ。

寺山の俳句を読み直すことは、文芸の持つ本然的な闇を読み直すことなのだ。伝統に回帰したつもりでいる多くの「写生」俳人たちは自ら気づかぬうちにその文芸の伝統を捨てている。私にはどうしてもそう思えてならないのである。

 

 《偉大な政治家にならなくともよいし、偉大なスポーツマンにならなくともよい。ただ、偉大な質問者になりたい。》(寺山修司「時代に向かって疑問を投げかける」より)

 

 《地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思っていたのである。》(寺山修司『田園に死す』「跋」より)

 

 偉大な政治家、偉大なスポーツマン、偉大な思想、とは言っても偉大な詩人とは言わなかった。文学・演劇以外にはギャンブルしかしなかったような男が、偉大な詩人ではなく偉大な質問者になりたかった、と書いたのは思えば不思議なことだ。おそらく詩人であることが質問者であることを意味していたのだろう。

 俳句を見た時に、確かに彼は質問者だった。けっして革命家でも思想家でもなく、反逆児でさえもなかった。寺山俳句はそれ自体が質問であった。寺山俳句は実験ではなく質問だったのだと思う。無季句でさえ十七音の中に目立たずとけこんでいるところを見ると実験として無季句を作ったようには見えない。

 

 父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し

 暗室より水の音する母の情事

 心臓の汽笛まつすぐ北望し

 

 寺山にとって季語とは何だったのか。これは前作でも少し触れたことだったが、今いちど考えてみたい。《季語は呪物だ》と彼は言った。「呪物」という言葉にまどわされてはいけない。「呪物」とは「言霊」と言い替えることもできるだろう。季語には光りもあれば、闇もあるはずだ。長い時間をかけて熟成された言葉である季語は、それ自体、言葉の力を持っている。「呪物」とはまさにそうした意味であるはずだ。「呪物」ととらえている限り、寺山は季語から解放されていない。「呪物」と呼ぶこと自体いかに季語を重視していたかの証でもある。なぜなら俳句に限らず、彼の作品は文字通り呪物にいろどられていたのだから。しかし、寺山は「季語は俳句にとって必要なものです」とは言わない。そういう言い方は質問者にふさわしくない。季語をあえて「呪物」と呼ぶことで、彼は俳人に季語の意味を問いかけている。お前はどう思うのか、と。

 あるいは、言葉それ自体が持つ物語性をどう思うのか、という問いでもある。

 季語という言葉がそれ自体呪物としての物語を持っていることを認めるということは、言葉自体が持つ虚を認めることになるはずだ。つまり、これは芭蕉の言った《風狂は其言語》に通ずるのである。

 俳人は季語の持つ物語性を利用する権利を持つ、と言うこともできるだろう。俳人は(詩人はと言っても良い)言葉の特権者なのだ。言葉を通して俳人は風狂となる。私は寺山俳句の虚実を通して芭蕉の風狂にたどり着く思いがした。風狂の人・寺山修司はその肉体丸ごと俳人だったと言いたい。

 

 《寺山を、近代俳句史のどのあたりに位置づけることができるかというと、非常に難しい。いわゆる伝統俳句でないことは間違いない。さりとて前衛俳句とも違う。》(小林恭二「反歌作家としての啄木そして寺山」より)

 

 小林恭二は寺山を伝統ではないと断言したが、それは表面的な見方にすぎない。伝統の名のもとに日常報告記録的な作品を疑うことなく発表している俳人こそ、文芸の虚実の伝統を無視した偽詩人ではなかろうか。伝統はその類似品を作るためにあるのではなく、詩人の精神を伝承するためにある。寺山は伝統の虚実観を、虚構化された私性による表現によって作品化した。狭い俳句の枠をのりこえて、現代に芭蕉・近松の世界をよみがえらせたのである。

 風狂の人・寺山修司。

 そう呼ぶことこそが彼にはふさわしいように私には思える。

 寺山俳句は現代俳句への警鐘である。私たちは寺山修司という稀有の俳人を戦後俳句史の中に持った。それは今も私たちに、文芸の虚実とは何か、「私」とはなにものなのかと問い続けている。寺山が世を去って早くも二十年以上の歳月が流れた。なにをいまさら寺山なのか、との意見もあろう。しかし、彼が私たちに投げつけた質問に、私たちはこれまで何を答えてきただろうか。自分が望んだとおり「偉大な質問者」となった寺山は、今もなお彼の作品を通して私たちの答を待っているのではないか。私にはそう思えてならないのである。

 

 家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛

 蛍火で読みしは戸籍抄本のみ

 絹糸赤し村の暗部に出生し

 台詞ゆえ甕の落葉を見て泣きぬ

 

                 了

 

(『雪華』平成17年11・12月合併号収載)

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