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梁塵秘抄論 無名の聖性と現代俳句

 

                  五十嵐 秀彦

 

 

一、私たちはどこから来たのか

 

ある日、俳句の無名性ということを考えた。

 

句会では選句が終るまで作者の名は隠されているのが普通であり、それは公平な選句のためと言われもするが、はたして理由はそれだけだろうか。

そこには座という共同体が個々の作者名より優先するという意識があるのではないか、あるいはそういう意識の名残ではないか、とも思う。

作者名が必要ないとまではいかないが、まず座という精神の共同体があり、その座に自分を解き放つためには、名前は無くともかまわない。そんな座というものがかつてはあった。

俳号というものも現代的なペンネームとは違って、無名性の仮面と考えればより納得できるものがある。

だが、このごろは私も含めて本名の作家も増えている。それは俳号が昔のような無名性の仮面ではなく、ペンネーム化したためかもしれない。

 

俳句は無名の文芸だと言えば、すぐさま批判の声があがることを私は知っている。いわく「表現者の自覚と個性のない作品は作品に値しない」「俳句は仲良しクラブのものではない」、と。

 

そのとおりだと思う。

 

しかし私は無名性ということに、そうした批判とは次元の異なる重大な鍵が隠されているように思えてならない。

私たちは学校教育の中で文学というものを学んだ。芸術も同様だ。そしてそのことごとくが、言い換えれば作家主義に根ざしている。小説も、詩も、短歌も、俳句も、作品と同時に作家が重要であることを教育された。

明治以降、西洋文化の流入により芽生えた自我の独立性を象徴するもの、それが作家主義であったとも言える。私たちはそういう文化論に首まで浸かって生きてきたのだが、しかし、どこかそれが借り着のようなものである感触もぬぐえない。

 

江戸時代はどうだったのか、と思う。そして中世は、平安時代は、上代は。

俳句実作者として、作家主義の陰にいつもちらちらと見える無名性の正体について、私はすこし考えてみることにした。

 

そのためにはこの国における文学の成り立ちと発展について考える必要があり、そしてその際「うた」の歴史を無視することはできない。それどころか「うた」こそ日本の文学史そのものと言ってもいい。

小説の歴史を過小評価するつもりはないが、所詮明治以降のもので歴史の厚みが違う。そして、異論のあるところかもしれないが、小説の中でいわゆる私小説には背景に「うた」の歴史があるとも思う。

 

「うた」の歴史はそのようにこの国の文学の根幹をなしてきたが、それを和歌の流れ、あるいは、和歌、連歌、俳諧の流れという単純な、たとえれば一本の川として見ることには疑問がある。

 

私たちはとりあえず「うた」の流れを記紀歌謡までさかのぼることができる。また、そこまでしかさかのぼれない。記紀歌謡には和歌の原形を発見することができると同時に、和歌の完成形もそこにはある。古今集以降の勅撰和歌集とは異なり、多様な詩形の「うた」がそこにある。中国から移入した漢字を表音文字的に利用するという離れ業を駆使し、先人は自らの「うた」を書き記した。私たちはそれを文字によって現在によみがえらせることができるが、そのとき実はもうひとつの重要なものが欠落しているのである。

 

それは旋律だ。

より直裁に言うならば音楽だ。

五七五七七の短歌形式が完成するまでは、「うた」は歌謡であったと思われる。

録音装置はおろか、普遍的に作られた楽譜もなかった時代の歌謡が言葉だけ遺されるのは当然の運命である。

そんな事情で残念ながら私たちは当時の「うた」を再現できない。しかし古事記、日本書紀には、旋律にのせて朗唱されていたと確信できる痕跡が残されている。それは万葉集にも見られ、和歌はもと歌謡であったと推測しても無理はなかろう。

そもそも歌謡と詩とを分ける意識も必然性も当時の日本人にはなかったはずだ。文字を持ってまだ日の浅い日本人であっても、文字以前の「うた」の歴史は遥か古代より続いてきていたはずであり、またそのいくつかが古事記、日本書紀に記録されていることから見ても、それが単なる俗謡ではなかったことがうかがえる。

 

「うた」はおそらく、神と氏族共同体とをつなぐ神聖な行為であったのだろう。神歌(かみうた)としての歌謡があったのである。

それが多くの宮廷歌人を生む母体となった。柿本人麻呂もその一人である。

天皇国家が強固になるにつれ、「うた」は神と氏族共同体の関係から、神と氏族共同体の代表者である天皇とをつなぐ神歌となる。万葉集にはそうした「うた」が多数収載されている。そして中国から入ってきたのは文字や進んだ社会制度だけではなく、宗教や文化も当然入ってきたのであり、その中に漢詩があった。

中国では詩は士大夫の教養であり、日本においても貴族のたしなみとなった。詩は文字のよって記される。その影響、あるいは対抗心から和歌も文字を重視する詩としての体裁をとっていったものと思われる。

 

しだいに和歌は歌謡から分かれてしまった。

では「うた」の持っていた歌謡性はどうなったのだろう。

それは平安期に催馬楽、田楽として謡曲の流れをなしていた。

「うた」は和歌と謡曲とに分岐したのである。

そして平安期に、和歌がもっぱら貴族たちの教養であったのに比して、謡曲は遊芸として階級を超えた広がりを示した。しかし、謡曲は言葉より音楽に重きをおいていたことと、遊芸者の業となったことから、記録として残されることがきわめて難しいものであった。

後世に残そうとする意志がなかったものは当然散逸してしまう。

ところが、その中で奇跡的に今に継承されたものがある。

 

 それが「梁塵秘抄」であった。

 

 

二、「梁塵秘抄」あるいは今様とは何か

 

和歌、連歌、俳諧、俳句。

どうもいつもこの一直線の流ればかり見つめる癖がついてしまっていて、「梁塵秘抄」などと言っても、昔そんなものもあったな、という程度だ。

和歌から俳諧までの流れのなかに該当しそうもないので、無視しておいていいだろう、今様?ああ今様というのかあれは、そんなありさまである。

それは私のことだ。しかし、私だけではなく、多くの人たちがだいたいこんなものだろうし、俳人も例外ではない。

 

「梁塵秘抄」とは、平安末期(一一八〇年前後)に編まれた歌謡集で、今様歌の集成である。編者は後白河法皇であった。

この人物は非常に興味深いのだが、そのことはのちほど少し詳しく述べたい。

 

「梁塵」とは、名人の歌のすばらしさに梁の塵も動いたという中国の故事にもとづき、音楽や歌声の美しいのを賞賛する意味であるところから付けられたと思われる。

今様歌とは、平安中期から鎌倉時代に流行した新歌謡で、従来の催馬楽、神楽歌などと区別するため今様と呼ばれた。

形式的には七・五調十二音句の四句でひとつとするものが代表的で、白拍子・傀儡女・遊女などにより歌われた。それを無類の今様好きであった後白河院が編纂したわけである。

 

 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん、

 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動がるれ

                「梁塵秘抄」359

 

この歌も遊女によるものだそうだが、「梁塵秘抄」におさめられた歌の多くが、白拍子・傀儡女・遊女などにより歌われたということは今様を理解するのに非常に重要なことである。

さらに重要なことは、これが和歌ではなく、歌謡だということだ。それゆえに「梁塵秘抄」は重きをおかれず、次第に散逸し、明治になってそのごく一部が発見されようやく日の目を見たのである。

 

白拍子とは辞書によれば

《平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを演じる遊女。今様などを歌い、水干・立烏帽子・佩刀の男装で舞ったので男舞といわれた。のちの曲舞などに影響を与えたほか、能にも取り入れられた。》

となっており、その絵姿などはどこかで見たことがあるだろう。彼女たちが今様の作者であり歌い手でもあった。

 

白拍子も傀儡女も当時は遊女であったことから、今様は春を売る遊女の余芸と決め付けるのは早計である。そこには、遊女に対する近世に作られた先入観で上代、中世を見るという誤りがある。

彼女たちは基本的に芸能者であった。

芸能者は卑しい身分ではありながら、同時に聖なる存在でもあり当時の階級の垣根を飛び越えて活動していた。

そこに貴族社会との接点もあったと想像される。

 

古代においては詩歌も歌謡の要素が強かった。それが五七五七七の短歌形式の定着と、漢詩の流入が、詩歌と歌謡とを分けることになったのだろう。

中国文化に対抗する意識が短歌を詩歌として完成させ、書き留める風習を作った。渡来のすぐれた文化の影響から、文字による詩歌を特権階級の嗜みとする概念が貴族社会に定着した一方、歌謡は歌謡として生き続けていたはずだが、卑俗なものとして書き残されることもなかった。

現代の流行歌が人の記憶にあまり長く残らないことと、さほど変わらないものとも言えるだろう。

 

けれど中国において詩経がそうであったように、詩歌の源流は庶民の歌にあった。共同体と神とをつなぐ歌謡から詩歌が生れてきたのである。

であれば、短歌も今様も同根の文化であったはずだ。

かたや書き残され、かたや歌い捨てられるものであったとしても、「うた」の故郷は同じであったし、またそのことを見抜いていた人物も当時すでに現れていたのである。

 

 

三、勅撰集としての「梁塵秘抄」

 

宮廷が芸術のサロンと政争の場であるという両極端な性質を、全身で体現した帝王が平安末の異才、異能の帝王、後白河という人物であった。

 

後白河天皇は、鳥羽法皇と崇徳上皇の対立という構図の中で、鳥羽法皇によって天皇にされた人物である。その鳥羽法皇が死去したあと、保元の乱が起きる。後白河天皇は当時力を持ちつつあった武士をあやつり、崇徳上皇を破り自らの権力を安定化させたかに見えたが、利用したはずの武士階級がこの戦いによって大きな武力を持つことになり、その後、平清盛の権力におびやかされるようになってしまう。

 

そういう不安定な政治状況が続く中で、後白河天皇は二条天皇に譲位し、その後、五代にわたる長い院政をひく。

その後出家し法皇となり、天皇と平氏との三つ巴の権力争いを展開する。結局は源氏による鎌倉幕府誕生という道を開くことになってしまったが、それでもなお朝廷と幕府との二重政権を作りあげるという離れ業を演じた政治家であった。

そのしたたかさは源頼朝に「日本国第一の大天狗」と言わせたほどである。

 

同時に後白河院の特徴として、詩歌・芸能への造詣が深かったことがあげられる。

勅撰和歌集として八代集の第七にあたる千載和歌集を編纂した。

また今様への傾斜が強く、「今様狂い」と称されるほどの「遊び人」でもあり、父である鳥羽法皇からは後白河の人物評として「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評されたらしいが、逆に見ればその全てに通じていたともいえよう。

後白河院は乙前という遊女を今様の師として近くに置き、宮廷に上げては直接今様の指導を受けていた。

幾日も徹夜で歌うほどに没頭していた。

そのころ貴族社会の中で、今様がどれほど流行していたかは定かではないが、後白河以前から下地は当然あったのであり、朝廷の最高権威者が夢中になっていれば、その周辺も大いに巻き込まれていただろうことは想像に難くない。

 

勅撰和歌集編纂までは通常の天皇の為すことである。しかしなぜ後白河はさらに今様の勅撰集を作ったのか。

このことについては「梁塵秘抄」の「口伝集 巻十」で自ら直接説明している。大半が散逸したなかで、これが全文残っていたことは奇跡のようなことだ。そこにはこんな一言が書かれている。

 

 こゑわざの悲しき事は、我身かくれぬる後とどまる事のなき也

          「梁塵秘抄 口伝集十」より

 

後白河院は、詩と異なり歌謡である今様が、のちの時代に残らないことを強く不満に思っていた。

夜通し歌いつづけていると、ある瞬間、仏の示現さえありうる今様は、院にとってけっして軽い遊芸ではなく、歴代天皇が自動的に編纂すると言ってもいい勅撰和歌集よりも、書き残す意義のあることと考えたのは、帝王としてはやや自由に過ぎる発想ながら、理解できることである。

後白河の自由な考えに影響されて、こちらも自由に想像力の翼をはばたかせるならば、歌謡曲やロックなどに心ひかれる現代人の心理に似たものが今様の流行にはあったのだろう。

そこにはうるさい作法も、使ってはいけない言葉もない。むしろ和歌が避けている現代的で俗な言葉が多く見られる。

 

 舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴させてん

 踏破せてん 真に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん

                「梁塵秘抄」408

 

俗な言葉が詩においてときに強力な起爆剤になることは多くの文芸作品が証明していることだ。

硬直化していた宮廷文化において、今様の俗語が強い言葉の力を発揮したのである。そして後白河が自ら語ったように、神仏と自分をつなぐ力が今様にあることが、勅撰和歌集と同様に、今様を勅撰する理由としてあることを、院は確信していたのではなかろうか。

 

 

四、「うた」の聖性と無名性

 

勅撰の意味するところをもう少し考えてみよう。そのためには後白河院の生きた時代を見直す必要がある。

 

前述したように後白河院の生きた時代は激動の時代であった。自らが利用した武士階級の勃興を抑えることができなくなり、時代の権力は急速に武士へと移行していく。

天皇を頂点とする神聖帝国をどうやって維持するかが、院の命題となった。まず院は、朝廷の権力そのものを維持しようと努める。だが崩壊を始めた旧体制を支えることは日増しにむずかしくなる。最後には武家政権の世俗的権力を黙認しつつ、精神世界の帝王としての朝廷を維持することに腐心せざるをえなくなるのである。

 

精神世界の王として最もやらねばならないことはなにか。

 

私は言霊の支配がそれではないかと考えている。万葉集の編纂以降、初の勅撰和歌集である「古今和歌集」から始まり、八代集、十三代集の計二十勅撰集が作成され続けたことに、この国の精神世界に対する天皇の権威の維持が非常に重要なことであったことが見て取れる。

それは、「うた」が神の代言であるという万葉以来の精神が武家政権の現実主義に対抗する精神として受け継がれていたのだろう。

 

その意味で、後白河は台頭する武家政権の新しい価値観に対し、現実世界での権力維持が難しいとなったとき、神うたの支配という手段を旧体制権威の延命に使おうとしたと言える。

さらにそこに後白河という異色のキャラクターが、和歌だけではなく今様の勅撰というものを生み出した。

推測ではあるが、後白河は形骸化しつつあった和歌よりも、今様にこそより強い聖性を見ていたのではないか。

千載和歌集が、院の下命を受けた藤原俊成により俊成の私選集「三五代集」に基づき編纂されたのに比べ、「梁塵秘抄」はあきらかに後白河自身の手によるものであるからだ。

 

では、言霊=「うた」の聖性、とは何だろう。万葉集において顕著なように、天皇の御製、あるいは天皇に随行した宮廷歌人たちの「うた」が、万葉集において非常に重要な意味を持っていた。

そもそも万葉集編纂の目的はそこにこそあったからである。

天皇に神が宿り、その天皇が宮廷歌人の口を通して「うた」を詠む。このことができることこそ天皇が聖なる存在であることの証拠なのだということを貴族や民に知らしめなければならない。

 

そこには「うた」が持つ神秘性、原始的な呪力への共通の理解という文化の背景があり、中国からの漢詩の移入をもってしてもその位置は揺らがなかったと思われる。

つまり「うた」の聖性は天皇が作り出したのではない。

「うた」が聖なるものだという認識があって、その「うた」を統べている天皇こそ神なのだとする支配の論理、権力の論理が働いているのである。

大和朝廷はその初期からこの国土に宿る神と自らの存在とを一体化させようと苦心した。「古事記」「日本書紀」「万葉集」などは全てそのための戦略とも言える。その背後には、ひょっとすると大和朝廷が外来の勢力であって、征服者として被征服者を説得するためのものであったのかもしれないが、そのことは歴史学の分野になるのでここでは掘り下げないし、その力もない。

 

しかし、この国に生きる人々にとって、国土に宿る神の存在がなにより重いことを、記紀・万葉が教えてくれる。

天皇の神権以前に産土神があり、その神の声こそが「うた」なのだという共通認識がまずはあったのだろう。

天皇はその「うた」を支配する力を持っているがゆえに神であり、神権を持つ存在とする論理は、それほど突飛なものとも思えない。

 

私にはそう考えることなく、勅撰和歌集への歴代天皇・法皇の執着を理解することができない。そのことは高橋睦郎の『読みなおし日本文学史』(岩波新書)にも詳しく述べられており、私は高橋氏の説に大きな共感を持つ。

「梁塵秘抄」の意味を読み解くには、このような「うた」の聖性への理解が必要である。

 

「梁塵秘抄」におさめられた作品は作者不明のものばかりである。全篇作者不明のことばの集成を読むのは作家主義に慣らされた現代人にはかなりつらいものがある。

そこに梁塵秘抄を代表する人物としての後白河の存在の重要性が浮き上がる。

この人物がいたことで、「梁塵秘抄」はきわだった異形を放つことになった。

鳥羽法皇、後白河法皇、後鳥羽法皇と、平安末に三人続いた院政文化を通覧すると、後白河が特に興味深い。

もちろん後鳥羽も平安末から中世という時代の「うた」の主宰者としてきわめて劇的な生涯をおくったが、その後鳥羽とくらべても後白河は異様な帝王であった。

 

私が彼に特に興味を持つのは、彼が自ら進んで遊芸の主宰者たろうとしたことだ。

後白河が精根傾けたものは、「千載集」ではなく、今様であった。口伝集第十巻に自らが熱気をこめて語っているように、院はおのれこそ当代の今様の歌い手であると信じており、その自分の業績が、今様が謡曲であるということだけで後世に残されないことに大きな不満を抱き、「梁塵秘抄」を勅撰したのである。

 

まず注目すべきは、今様を作り歌っていた階層が当時どのような位置にいたのか、そして後白河は高貴な身分でありながら、今様の階層とどのような場を通じて接触していたのか、その当時の社会的、文化的背景はどうだったのか、である。

やはりそのことをたとえ想像が多くを占めようとも、一度は考えておく必要があるだろう。

その意味で、棚橋光男の『後白河法皇』(講談社学術文庫)での、文化のサブセンターとしての「場」を後白河院が作っていたという指摘は注目に値する。

 

当時の芸能者が下賤の者として差別される存在でありながら、広い範囲で情報伝達機能を発揮していたことを考えると、後白河院は彼らから諸国のさまざまな情報を収集していたとも考えられる。彼は本来の居所である内裏を離れ、左京の特に六波羅周辺に離宮を転々として暮らしたのは賤民との交流と情報収集のためであったか、結果的にそうした点で好都合であったのだろうと思われる。

 

それをうかがわせるエピソードが、美川圭の『院政 もうひとつの天皇制』(中公新書)にあった。

 

《後白河が八条堀河の顕長邸の桟敷で、八条大路の様子などを眺めたり、民衆を呼び寄せたりしていたところ、経宗・惟方は突然そこに板を激しく打ちつけ上皇の視界をさえぎってしまったのだという。後白河が若いときから今様に集中していたことはよく知られている。今様というのは、民衆の歌謡である。後白河には、民衆との接触を好むという性向があった。はたして彼が民衆との結びつきによって、自らの王権を強化しようとする積極的な意志をもっていたかどうかだが、二条の側近である経宗や惟方が、上皇の行動にそうした警戒心をいだいたことは十分考えられる》

 

ここに民衆文化の浮上する中世へと通じる時代の道筋があった。

 

 

五、無名の「うた」を担った人々

 

 わぬしは情無や わらはがあらじとも住まじとも いはばこそ憎からめ

 父や母のさけたまふ仲なれば 切るとも刻むとも 世にもあらじ

                「梁塵秘抄」341

 

「梁塵秘抄」に収載された今様は大きく分けると二つに分類される。それは、法文歌、神歌の宗教的作品と、雑歌の世俗的作品である。その全てが無名作者の歌である。

そして前述したように、主に芸能者である遊女たちによって作られ歌い広められたものだ。

右の句のように遊女が男を思う赤裸々な歌が雑歌として多数収められている。

 

しかし、秘抄に現われる人々は遊女だけではない。博徒、巫女、樵夫、漁民、鵜飼など、当時の社会で最下層に位置づけられ差別されていた人々の歌もまた「梁塵秘抄」を特徴付けている。

 

 鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結ひ

 現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん

                「梁塵秘抄」355

 

 わが子は十余になりぬらん 巫女してこそ歩くなれ 田子の浦に潮汲むと

 いかに海人集ふらん まだしとて 問ひみ問はずみ嬲るらん いとほしや

                「梁塵秘抄」364

 

 わが子は二十になりぬらん 博打してこそ歩くなれ 国々の博党に 

 さすがに子なれば憎かなし 負かいたまふな 王子の住吉西宮

                「梁塵秘抄」365

 

 樵夫は恐ろしや 荒けき姿に鎌を持ち斧を提げ

 うしろに柴木舞ひのぼるとかやな前には山守寄せじとて 杖を提げ

               「梁塵秘抄」399

 

雑歌の中に農民の歌はほとんど無い。遊芸の徒や、仏教の殺生戒を犯すものとして差別された山の民や海の民の歌が並んでいる。 

特に鵜飼は、めでたい動物である亀を鵜の餌として殺していたことで、殺生戒を犯す生業の象徴として歌われている。

「梁塵秘抄」には右の355の歌の他にも鵜飼の歌があり、今様作者の罪業感の共有がそこに感じられる。それは後に世阿弥による能の名曲「鵜飼」として結実することになり、河原者として差別された世阿弥の視点をそこに見つけることができる。

 

平安末は末法思想の蔓延した時代だ。当時生きていた人々にとって、極楽往生できるか、それとも地獄に堕ちるかは切迫した問題であり不安であった。その中で業の深いとされた生業の者たちは地獄堕ちの宿命に苦悩していたのである。

本来は平等を説くべきはずの仏教が皮肉にも下層民を追い詰めていた。

それはしだいに仏教界内部からの改革にもつながってゆく。

「梁塵秘抄」に法文歌、神歌などの宗教的今様が多くあるのもそうした時代の反映であった。

 

 阿弥陀ほとけの誓願ぞ かへすがへすも頼もしき

 一たび御名を称ふれば ほとけに成るとぞ説いたまふ

                「梁塵秘抄」29

 

親鸞の登場が既にこの時代に予見されていたのである。

平安朝崩壊の動乱期、古代的共同体が崩れてゆく中、末法思想により疎外された人々は初めて「ワタクシ」の存在に気づくこととなった。

最下層に生きる者は孤独に地獄に堕ちるのか、それが宿命なのか、その焦燥感がそれまでの共同体中心の思想から、「ワタクシ」の思想の誕生へと時代を動かすこととなった。

後白河院はそんな時代精神を肌で感じ取っていたのかもしれない。日本人の精神史の大きな曲り角に「梁塵秘抄」は生々しく書き残されたのである。

 

 頭に遊ぶは頭虱 項のくぼをぞ極めて食ふ

 櫛の歯より天降る 麻小笥の蓋にて命終る

               「梁塵秘抄」410

 

 いざれ独楽 鳥羽の城南寺の祭見に 我は罷らじ恐ろしや

 懲り果てぬ 作り道や四塚に 焦心る上馬の多かるに

               「梁塵秘抄」439

 

和歌・連歌のやまとことばに対抗するように、のちに俳諧が俗語・漢語を大胆に使用することになるその民衆的力が既に平安末から存在していたことを「梁塵秘抄」から私たちは知ることができる。

謡曲として、また下賤な今様として、和歌とは異なるものとされていたため、「うた」の世界に目に見えてその力があらわれるのには、しばらくの時が必要だった。

賤民の俗謡を集めて勅撰とする。それを後白河のエキセントリックさにばかり結び付けて論ずることは、十分に当時の時代の風をとらえているとは言えない。

多くの賤民を表現者とする大衆芸能が質量ともに高まったことのあらわれと捉えるべきと考える。

 

公の歴史に現れない芸能のうねりがあり、堂上(王朝)から地下(大衆)へと拡散した連歌の流れが、そのうねりと合流し、そこから俳諧が生まれたととらえれば、俳諧の特徴である俗語・漢語・諧謔が、「梁塵秘抄」の時代に早くも当たり前のこととして表現されていたことからの伝承であるとは言えないか。

 

平安末、末法動乱の世において、共同体からはじき出された「ワタクシ」が登場し、「うた」は権力構造の枠組みから出て、流浪を始め、また「ワタクシ」を地獄落ちより救済するための宗教が続々と生まれた。

『梁塵秘抄』の主人公たちはその後、一層混迷する時代に投げ出され、再構成され組織化されてゆく農民を中心とした「良民」にも入れられずに、さまざまな遊芸者となり諸国にその芸を伝播するのだった。

権力の勝敗がくりかえされ、統一国家へと向かう中で、遊芸者は聖性を奪われ被差別民化していく。

だがその文化は広く大衆に影響を与え続けた。

 

中世末にはその賤民文化を吸い上げた庶民層あるいは武家も含んだ大衆の中から俳諧が生まれてきた。

連歌にはあきたらぬ俗謡の力が俳諧を生んだとも言えるのかもしれない。

同時に連歌の持つ教養主義は、連歌のパロディとして登場した俳諧にも継承される。

 

和歌の伝統が王朝文化を継承したように、俳諧は「梁塵秘抄」に見られる無名の庶民・賤民の「うた」の精神を継承したのである。下から突き上げるように下層民のバイタリティが連歌を揺さぶり、俗語や諧謔等の今様的なものを混血させた。

江戸期において、幕府による宗教、文化統制が厳しさを強める中、「ワタクシ」の救済という「うた」の持つ信仰性を前面に出すことができず、俳諧はその代償行為として象徴主義の道を選んだように私には思える。

つまり、芭蕉による蕉風俳諧がそれである。以降、俳諧は諧謔の詩である反面、象徴詩としての側面を持ち続けた。

 

 

六、近代以降の俳句

 

ここまで私は長いスペースを割いて「梁塵秘抄」から俳諧誕生に至る背景を述べてきた。

本来ならばここで近世江戸期俳諧史について触れるべきではあるが、それは別な機会としよう。

私がこれまで書いたことは文学史のおさらいをすることが目的ではなく、あくまで現代俳句を読み解くための考察である。ここからは子規以降から今に至る俳句に視点を移してみたい。

 

近代以降の俳句の世界はいつも子規・虚子の流れを重視してきた。この二人を語れば近代以降の俳句の大半は済んでしまうかのようだ。であるから子規論はあまた世に存在する。

 

私たち俳人は、五七五のいわゆる発句形式を自らの詩形としている。だから、芭蕉や蕪村のことを重視しながらも、その実は、江戸期俳諧との詩形の違いから、そこと自分とが直結しているとはなかなか思えない。

やはり子規の影響力はきわめて強く、彼がいなければ私たちもいないような思いが日常としてある。

また、子規が江戸俳諧を月並宗匠俳句として切って捨てたこと、そして西洋美術から流用した客観写生という概念を打ち出したことが、近代以降の俳句のあり方を規定してしまって、その直線上に私たちがいるという「常識」が、私たちにとって子規を父か祖父のように思わせるのだろう。

この「常識」は厳密に言うなら虚子が確立したものではあるが、やはり最初に発言した人物の印象が強烈に記憶され継承されている。

 

子規が宗匠俳諧による閉塞という時代状況を天才的な腕力で打開したのは事実である。

伝統的なものをすべて旧弊として抹殺せんばかりの危機的な欧化政策の時代を、結果的に俳句は生き延びることができた。

 

けれど、子規の業績にも功罪両面があった。

功がそのまま裏返せば罪となったと言うこともできるのではないか。明治維新以降、王政復古の体裁をとりながら、政治構造や教育制度、軍隊組織などを西洋を範とする欧化政策が推し進められた。

文化状況としては「芸術」「文学」という西洋的尺度がほぼ無批判に導入されたのである。

元来この国にはなかった物差しで従来の伝統文化が一方的に見直されることとなった。

江戸期に花咲いた町人文化の大半は芸術に価しないものとして否定され教育から排除されてしまった。そんな中で子規が時代の流れを見るのに天才的であったことは間違いない。

 

彼は西洋美術から写生という手法を俳句に持ち込み、発句の独立化で俳句を作品とし、連俳を否定することで作家主義を実現した。全て西洋の芸術観の中で俳句を文学作品とするための作戦であった。

そうすることによって、西洋的な小説などよりは軽視されつつも、最も困難な時期を俳句は乗り越えた。

しかし同時に、子規の俳句革新が過去を否定することにもなってしまった。

子規の俳句を継承した高浜虚子は写生を重視しつつも花鳥諷詠という側面を強調することで西洋文学とは一線を画すことを明確にした。

 

オーガナイザーとしてきわめて優秀であった虚子は結社ホトトギスを巨大化させ、その組織のみで自足しうる王国を作り上げる。そのために文学論争のようなことはことごとく避けたのである。

理論派であり論争好きであった子規とは対照的な姿勢を貫いたわけだ。

写生という近代理論を重視しながらも、花鳥諷詠という一見古典的な姿勢をとり、あらゆる論争を排除した王国を作り上げ、自らを伝統俳句とした虚子と巨大組織ホトトギスは、俳句を数の面で大衆化し延命させた。

ホトトギスに対抗するためにはホトトギスの外で組織を作ることとなり、反ホトトギス的結社が多く誕生したが、互いに組織の存在を賭けた論争はなされず、ホトトギスがあるゆえに反ホトトギスが存在しているかのような、奇妙な補完関係ができてしまった。

 

より現代的であろうとする俳人たちは、ホトトギスの主唱する伝統俳句という概念をそのまま文字どおり「伝統」として受け止め、ホトトギス的伝統俳句を意識した中で現代俳句たろうと試みた。

現在もなおその構図は続いている。

そしてその構図はホトトギス的「伝統」対反ホトトギス的「現代」という安直な図式化を生んでしまい、ただの流派の並立という現実しか生み出さなかった。

 

つまり、伝統とは何かという真摯な問いはほとんどなされずに今日に至っているのである。

 

ホトトギスを中心として多数並立した流派は明確な対立点を示すことなく、文芸運動であるよりは組織論に傾斜してしまい、しだいに差異が不分明となり、現在の状況を見渡せば伝統俳句協会も現代俳句協会も俳人協会も、その内容のどこに根本的違いがあるのか見分けられなくなっている。

 

ホトトギス的「伝統」とは、所詮は子規以降の近代俳句の意味でしかなく、古来日本人が継承、発展させてきた「うた」の伝統を反映したものとはとても言えないのではないか。

花鳥風月と口では言いながら、その本質を源流にたずねる働きかけがこれまでどれほどなされてきたのだろうと疑問を持つ。

 

王朝崩壊後、阿弥と呼ばれる下層民たちによって継承された「うた」の聖性と俗性を、近代以降の俳人たちがどれほど意識してきたか。子規以降それが途絶えたとは思わない。

俳句作品の中にひそかにそれは、あるいは無意識に継承されて来ているのだ。

近代俳句が作り上げた擬似的伝統と、明治以降の文学観に表面的には押さえ込まれながら、地下の「うた」は個々の俳人たちの心の奥に生き続けている。

そのことを、あらためて論ずる時代がやって来ているのである。

 

 

七、現代俳句とは何か

 

俳句が無名性を失ったとき、「うた」の祝祭性も捨てられた。

俳句は近代文学の枠の中に位置づけられ、西洋文学の影響を強く受け、作家主義の道を歩むことになった。

それはその後、現代俳句においても何ら変わらない。

個を重視する近代的精神が文学の世界にも浸透し、もはやそれを誰も疑わないようになった。その結果、俳句における「私」が混乱に陥ることになる。

 

たとえばいろいろな場所でこんな会話を耳にすることはないだろうか。

 

 A「この句は主観的に過ぎるなぁ・・・」

 B「個性を前面に出すのはいけませんか?」

 A「俳句は自分をあまり前に出すとうまくいかないものですよ」

 B「実体験にもとづく自分の感動を句にしたのですが」

 A「実際にあったことだからといって良いわけではないね」

 B「じゃあフィクションのほうが良いのですか」

 A「誰もそんなこと言っちゃいないよ。虚構もいただけないなぁ」

 B「それじゃあ創作の中で自分の独自の世界や内面世界の表白は出来ないじゃありません 

  か」

 A「できなくもないが、自分というものは裏に隠してモノを詠うということが俳句の要諦ではない

  かね」

 B「それでは、短歌や俳句や私小説は私文学だと思っていましたが、違うということですね」

 A「?????」

 

さて、右は極端な例だが、これに近いやりとりは日常的にある。

AさんとBさんの会話はまるでかみ合っていない。しかし、どちらが正しいのでも誤っているのでもないのである。

 

主観対客観、事実対虚構、個性対非個性、主情対即物。「私」というもののまわりに無数の対立軸がある。

私=一人称=主観=想像力=個性。

この等式はどこかがおかしい。

この裏にあるのは「独立した自我」という概念ではなかろうか。

 

しかし日本文学の私性、という言い方をしたときに、そこに独立した自我をイメージできる人がどれだけいるだろう。

西洋文学、西洋の価値観の移入によって、独立した自我=私という等式が一般的となり、また戦後アメリカ文化の圧倒的な流入で、それは善なる思想となってしまった。

短歌や俳句や私小説などは、自我の独立性が薄弱な文芸ととらえられているようにも見える。

しかし、そう思いながらもこれらの文芸が私文学であるという思いもまた消えてはいない。

 

つまり私たちは「私」とは何かについて、矛盾した思いをいつも抱えているのである。

このような私性の混乱が正されることもないまま、俳句における主観や客観とか、事実性と虚構性の議論をおこなうから話はとめどなく混乱してしまう。

 

文芸において、それが創作である限り個性は重要である。しかしその個性とは何かと考えるとき、西洋の文学観だけを基準にしていても見えないものがある。

まず私たち日本人が「私」というものをどうとらえてきたのかという過去を振り返ってみることも必要であるはずだ。

 

「うた」は最古の芸能のひとつであった。

芸能は祝祭より生れたのであり、氏族共同体と神とをつなぐ「うた」は祝祭性の強い芸能であった。

詩人は氏族共同体に属し、集団のために「うた」を作った。

それが天皇を頂点とする古代国家に変わってゆく。

詩人は天皇の神権に奉仕する存在となった。

だが平安末より武士階級の力が強まり、天皇の世俗における権力はいちじるしく弱体化する。神聖共同体であった国家から聖性がその影を薄くしてゆく。世俗の権力の枠組みから神うたがはじき出されてしまったのである。

神うたは核を失い、堂上から地下へと拡散していく。

詩人はあらたなパトロンを求め地下連歌師となり全国をさまようことになる。

天皇のためでも幕府のためでもない神うたの流浪が常態となる。

だが「うた」は神を求めた。

なぜなら、人と神とをつなぐものこそ「うた」であったからだ。そして氏族社会が崩壊したあと、神とつながる人は集団ではなく「ワタクシ」としての人となったのである。

 

だが独りのみでの祝祭はもはや祝祭ではない。それゆえ詩人たちは擬似祝祭集団を形成した。それが「座」であった。

 

では現代を見てみよう。

遊芸のひとつであった文芸は近代以降、文学という高等芸術の衣をまとい、作家主義の道を歩んで来た。

そこに被差別の影を見つけるのもむずかしく、能楽や歌舞伎も高級な伝統芸術の地位を確保し、河原者の匂いさえない。

大衆芸能の世界に多少近世の習慣やアウトローとの関係も残っていないではないが、じきにそれも消えるだろう。

 

俳句の世界はどうか。

今も、芭蕉、蕪村、一茶らの天才俳諧師たちの作品は愛唱され尊崇されてはいるが、江戸俳諧自体は一部研究者による研究が大半で、それ自体を現代に継承しようとする動きはきわめて少ない。

組織としては多数の俳句結社があり、今も増殖しつづけている。

協会組織も巨大化し出版の面でも多くのメディアを持っている。

多数の人々が俳句という「文化活動」に参加している。江戸時代の座は、俳句結社という組織に飲み込まれ、結社単位の座であり連衆となっている。

 

座のもつ擬似祝祭集団の性格は、はたして現代の結社に残されているだろうか。

出版の発展により「うた」の活字化の創作活動に占める意味が重くなり、結社誌発行が結社の中心的活動となった時点で、句会の持つ意味はしだいに弱まってきている。

それでも句会はなお座の性格を保持してはいるが、組織内にシステム化されている傾向が強い。

こうした俳句界の現状は、中世から近世へかけての遊民による神うたの伝承という流れとはとうに無縁になっているかに見える。

 

しかし、座や組織がいかに近代化したからといって、神(自然)と人とをつなぐ「うた」が絶滅したととらえるのは早計である。なぜなら組織が俳句を作るのではなく、そのような時代になっても、人が俳句を作っている限り、太古からの本能はそう簡単に消滅するわけではないからだ。

ましてや、個人の孤立が強まる現代社会において、孤独を乗りこえようとする心がある限り、神うたはどこにでも生れてくる。

これまでの「宴」が死につつあっても、強まる「孤心」がある限り、あらたな「宴」が生れてくるはずだ。

 

 

八、「いのち」の俳句

 

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな     正岡子規

 

 冬蜂の死にどころなく歩きけり     村上鬼城

 

 奥白根かの世の雪をかがやかす   前田普羅

 

 物の種にぎればいのちひしめける  日野草城

 

 萩の風何か急かるる何ならむ     水原秋櫻子

 

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華     山口誓子

 

 なつかしの濁世の雨や涅槃像     阿波野青畝

 

 蟻地獄松風を聞くばかりなり      高野素十

 

 玉の緒のがくりと絶ゆる傀儡かな   西島麦南

 

 金剛の露ひとつぶや石の上      川端茅舎

 

 冬波に乗り夜が来る夜が来る     角川源義

 

 なめくぢのふり向き行かむ意思久し  中村草田男

 

 わが胸の骨息づくやきりぎりす     石田波郷

 

 蚊帳出づる地獄の顔に秋の風     加藤楸邨

 

 蛇消えて唐招提寺裏秋暗し      秋元不死男

 

 穀象の一匹だにもふりむかず     西東三鬼

 

 夢の世に葱を作りて寂しさよ      永田耕衣

 

 血を喀いて眼玉の乾く油照       石原八束

 

 しぐれつつ我を過ぎをりわれのこゑ  森澄雄

 

 父母の亡き裏口開いて枯木山     飯田龍太

 

 女身仏に春剥落のつづきをり      細見綾子

 

 蛍来てともす手相の迷路かな     寺山修司

 

 花茨来し方をまた行方とす       深谷雄大

 

 いにしへの花の奈落の中に坐す   角川春樹

 

 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう  折笠美秋

 

 南国に死して御恩のみなみかぜ    摂津幸彦

 

 磨崖仏おほむらさきを放ちけり     黒田杏子

 

 糸瓜棚この世のことのよく見ゆる    田中裕明

 

 

近代以降の「文学」と呼ばれる現象にまどわされることなく、膨大な俳句作品を読み直してみれば、神うたは近代、現代文学という巨大殿堂のあちこちに生きており、ひそやかに古代の息を吐いている。

 

西洋文学によって再編された近代、現代文学によるカテゴライズの中に神うたの伝承は体系を持つことがなかった。しかし伏流水となった神うたはいたるところでアスファルトの道のマンホールを押し上げているように、そのひそかな貌を覗かせている。

日陰者の意識の有無にかかわらず、それは姿をあらわし、またじきに隠れてしまう。一人の作家の長い俳句歴の中にほんの数句という例もあれば、あたかも本能のようにしばしば神うたへと流れる作家もいた。そこにホトトギスも非ホトトギスもない。伝統も前衛もないのである。

 

芭蕉はかつて「物のみへたる光、いまだ心にきへざる中にいひとむべし」と言った。そして山本健吉は、芭蕉の言う「光」を、「いのち」のきらめきであると解釈した。

 

「いのち」の俳句、それこそが神うたであり、花鳥風月であり、俳人を俳人たらしめている原型である。

和歌・連歌の伝統の中で形式化してゆく花鳥風月の「いのち」を、「梁塵秘抄」の野の「いのち」が揺さぶり、あらたな力を得てきたのだろう。

洗練と野卑とが交錯する中で「うた」は継承されてきた。

そして時代が変ろうとも、民衆の「うた」の力が常に底を流れていたのである。

「いのち」を問う歌である。

その「いのち」が共同体のそれから「ワタクシ」のそれへと移っていったのが平安末から中世にかけてのエポックであった。

連歌・俳諧というひとすじの流れだけではなく、今様・俳諧という流れもあったのである。

「梁塵秘抄」の花鳥風月と新古今の花鳥風月。

このふたつの「うた」の糸がもつれながら、中世・近世と流れていって、近代・現代もその流れに無縁ではない。

その視点から現代俳句を見直すとどうなるか。

無名性と非文学性。

押し隠されてきた「うた」の聖性が、実は俳句の中に脈々と生き続けている。

 

現代俳句は、現代の「梁塵秘抄」なのか、との問いの意味を考えてみても、それはいささか無理なことかもしれない。

今の世の中、傀儡でござい、遊女でござい、博徒でござい、などと言って俳句を作っているわけではない。

身分という考えがとっくに崩れている社会で、そんなことで俳人をとらえることは、もちろんナンセンスなことだ。

 

だがしかし、そうかといって私たちは「梁塵秘抄」の時代からどれほど遠くまできたというのだろうか。千年という時間はたしかに短くは無い。長く重い時間の流れがある。千年をジャンプしてきて、今があるのではなく、千年の長い川を私たちは流れてきた。遠くまで来たことは確かだ。

だがそれは時には幾筋にも分かれながら大河となって今に到るのである。その大河に較べれば近代以降の文学観は、そのもっともらしさにもかかわらず、どれほど私たちの血肉となっているだろう。

神うたとしての「いのち」の「うた」を詠いながら、神うたの伝承に気づかず、文芸における「ワタクシ」を探求することも忘れ、作家主義、活字主義という奇怪な現象にとらわれている現状は俳句にとって幸せなことといえるだろうか。

 

俳句は無名である「ワタクシ」と森羅万象との交歓であり、現代においてもそれが俳句の、また俳人の原郷である。

そのことを押さえずして伝統も前衛もなかろう。

結社や協会組織はいずれなくなるものかもしれない。

しかしそれがけっして俳句の終焉を意味しない。

また、俳人が強固な欧米型の作家主義を獲得することもない。

あるいは無名性の荒野にさまようことになる可能性も皆無とは言えないだろう。

そして、神うたの伏流水は絶えることがない。だからこそ俳句はその根に「梁塵秘抄」の精神を持っていると、あらためて私はそこに戻るのだ。

俗であること、雑であること、それゆえに聖であること、聖とはさまよう神であり、森羅万象であること。

「うた」は常にその源流を知っている。忘れているのは詩人、私たち俳人であるのかもしれない。

 

海と山とのあいだに私たちは生を享け、生涯をおくる。海、山に糧を得る者もまた、帰るべき家は海と山のあいだにある。そこに私たちの視座があり、海も山も旅路として存在するのだろう。

農を主とする律令の良民も、賤視された猟師も漁民も、山と海を異界として怖れた。死人の魂の還る地である山、補陀落へと通じる海。同じ空間に並存しながらも俗人には越えられぬ一線の向こう側に広がる世界がある。

共同体が揺らいだ平安末から中世において、救済を強く希求した個、「ワタクシ」の存在が、一種のあらたな共同幻想として多くの聖地を創り出したのだろう。

たとえば熊野などはその代表的な土地である。あらゆる聖なるものが、求心的ではなく拡散的に風土の中にひろがっていった。権力構造や社会体制から解き放たれた魂は彷徨し、山野を巡り、大海のむこうに西方浄土を見て、森羅万象に溶け込む自我存在に救済を求めた。「うた」はその魂とともにさすらった。

 

「ワタクシ」の花鳥風月が確立したのである。

 

私たちは明治以降、体系化された芸術論、文学観を精神の上のものさしとして受け入れてきた。それ以外のものは、存在することを認めつつも現代の尺度からは外れた古風な感情、あるいは形骸化した古式ででもあるかのようにとらえ、表に出せない不合理ななにものかとされているのではないか。

だがしかし、作品そのものを素直な目で見直すとき、近代・現代芸術論や文学観がそこに定着しているだろうか。

心の底に、古代から滔々と流れる川の音が聴こえはしないか。

作家主義や活字主義、現代的自我や個性、絵画的写生やいわゆるきれいごとの花鳥諷詠詩などではとらえられない「うた」の本性の地鳴りが聴こえはしないか。

私たちにとって「うた」とは何か、その問いに近代・現代俳句を支えて来たさまざまの理論はなかなか私に解答を与えてはくれない。

 

  我が身さへこそゆるがるれ

 

平安期の庶民の「うた」に託した心が、私たちの心の中にも流れている。大衆文芸の精華である俳諧を現代に受け継ぐ俳句にこそ、天と地と我とを歌で繋ごうと希求する「ワタクシ」の心が強く生き続けているのだ。

民衆の喜びや嘆きとともに生きてきた「うた」の大河、「いのち」としての花鳥風月の大河を、濁りの無い双眸で見つめていきたいのである。

                                               (了)

 

(『雪華』平成18年11・12月合併号 収載)

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