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                 俳句はどこへ行くのか ~メディア論の視点から~

                                              五十嵐 秀彦

 

第十八回中北海道現代俳句大会 講演記録

平成21年4月12日(日) 札幌サンプラザ

 

 

 

 

俳句の世界は停滞しているか

 

今回何を話そうか少し迷ったのですが、ちょうど講演の話があったころ『豈』という同人誌から、外部執筆者という立場で「メディア論」について何か書けとの依頼があったものですから、同じテーマではありながら内容の違う話を考えてみました。

 

演題は「俳句はどこへ行くのか ~メディア論の視点から~」です。

 

サブタイトルのほうはちょっと横に置いておいて、「俳句はどこへ行くのか」という問いですが、これはあまりいい質問とは言えません。

いきなりこう訊かれても答えようがないからです。

「どこへ行こうと俺の知ったことか」と言われるのが関の山でしょう。

ただ、この質問に先立つものとしてもうひとつの質問があるのです。それは「俳句の世界は停滞しているのか」という問いです。

これは内容はともかく、質問としてはっきりしています。

つまり、YESかNOかで答えなければならないからです。

YESと答えた場合、今が停滞しているとしたらこの先どうなると思うか、となりますし、NOと答えても、それでは今後どの方向に発展すると考えるか、と問い続けることになります。

「俳句はどこへ行くのか」というのは、つまりその先立つ質問を前提としてなされたものとお考えください。

 

現在の俳句の状況に停滞感を持っている人はかなり多いのではないでしょうか。

結社も現代俳句協会のような組織も動きが少なく、会員の固定化・高齢化・減少化がめだち、新しい運動も起きてこない。そういう現象はもうしばらく前から始まっていたことなのですが、ようやくこのごろそのことについての指摘や問題提起が出てくるようになってきました。

 

最近注目したものとしては、昨年(平成二十年)に単行本として出版され話題となった小川軽舟さんの『現代俳句の海図』という評論集と、角川の『俳句』平成二十一年一月号の座談会「俳句の未来予想図」などがあります。小川軽舟さんはポスト・モダンの視点から、昭和三十年前後に生まれた世代が現在の俳壇の実質的な中核をなしていること、その世代の作る俳句世界の美意識について、要領よくまとめた上で、「さしあたり俳句はどこへも行かない」という言い方をあえてしています。

この評論で、昭和三十年前後生まれの作家として紹介されていたのは、中原道夫(二十六年生)、正木ゆう子、片山由美子、三村純也、長谷川櫂、小澤實、石田郷子、田中裕明、櫂未知子、岸本尚毅(三十六年)の十人で、小川さん自身が三十六年生まれですから十一人ということになるのかもしれません。

 

この論は、それこそ「俳句はどこへ行くのか」という問いから始まって、これら十人の俳人たちを挙げ、その作風や、それを支える美意識を分析し、現代の俳句というものの姿を浮き彫りにした内容であり、優れたものと思います。

しかしながら、どうしてこの人選なんだという思いを抱く人もたぶん多いことでしょうし、一見拍子抜けするかのような「さしあたりどこへも行かないだろう」という結論にも異を唱えたい人も多いのではないかと思いもします。

私も『俳句界』平成二十年十二月号で、少少批判的に論じさせていただきました。

 

そして角川の『俳句』の座談会はこの「現代俳句の海図」に対する疑問というところから行われたようでした。

座談会の出席者は、橋本榮治、対馬康子、高山れおな、神野紗希の四人。

司会役の高山れおなさんの《俳句は停滞しているんじゃないかという意見がありますが》という問いかけに、対馬さんは《私は「停滞していない」派です》と答え、橋本さんは《停滞しているか、していないか、今は断言できない》と態度を保留します。

そして高山さんが《すでに自力では飛んでないけど、今までのところ慣性飛行を続けられているのかもしれない》と発言したことに対して神野さんが《そう考えると、表現史的には、完全に停滞しています》と断言するのです。

この座談会の中で、二十五歳の神野紗希さんは終始若手の代表として発言しています。彼女は結社に所属していません。最近の若手俳人の中には彼女のような無所属の人が増えてきています。

結社に若い人たちが入ってこないからといって、若者が俳句に興味を示さなくなったということではないと思うのです。だいたい俳句をやろうとする若い人がそんなに多くはないのは昔も今もそう変わりはありません。

むしろ最近、実は十代二十代でかなりの実力を持った人たちが現れているのです。しかしそういう若手を、これまでの俳句結社などの組織が掬いあげられずにいます。

あるいは今の若者の目には、既存の俳句集団が魅力に欠けた存在として映っているのかもしれない。

どうしてそんなことが言えるのか、というと、それはインターネットという新しいメディアをとおして気づいたのです。

インターネットなどと言うと、はたしてここにお集りの皆さんはどうそれを受け止めるのでしょう。

利用している人もいれば、自分とは無関係として触れる気もない人も多いかと思います。

便利な道具、しかしどこか胡散臭い世界。いずれにせよ、だいたいはそんなイメージがあるのではないでしょうか。

電話回線にパソコンをつないで、世界中の人とやり取りができるというのがインターネットで、もちろんメールという形での言ってみれば手紙のやりとりもできれば、ホームページという形での情報発信もできるという情報メディアがインターネットです。

その気になれば誰にでもホームページを作れますし、ブログという形での日記の公開もいま流行しています。

けれど、インターネットは誰でも発言できるメディアであるため、そして、発言者の素性がわからないという匿名性があるため、さまざまの胡散臭い現象もそこには発生しています。

アダルトサイト、出会い系サイト、人を中傷するサイトなどなど、犯罪の温床というイメージも最近はふくらんでいます。

そういう社会的な問題をはらみながら、しかし大変なスピードで普及しているのも事実です。

そして、このメディアと俳句や短歌は、なぜか不思議と相性がいいようなのです。

俳句作品の発表や、ネット上での句会などで、この数年かなりの賑わいを呈しています。

しかし、それをどう評価するのか、という点ではまだはっきりしていません。

ネットの俳句にはろくなものがない。個個がそれぞれひとりよがりをしているだけで、そこから何も成果は出てこない。だいたい横書きの俳句なんて、そもそもダメだ。顔を合わすことのない句会は句会じゃない。などなど。

いくらでもネガティブな感想が並びます。

私はそうしたネガティブな感想も否定しません。否定はしませんが、本当にネガティブな視点だけで、ネットで今起きていることを無視し軽視していていいのだろうか、とも思うのです。

今日は、ネットの俳句を語るのではなく、ネットも含んだメディアの側から、俳句の来し方行く末という論点で少しお話をさせてほしいと思います。

 

 

 

メディアの変遷

 

さて、「メディア」という言葉を使いました。

言葉というのは、はっきりしているようでいて実は非常に曖昧であることは、俳人の皆さんであれば当然日常的に気付いていることでしょう。特にカタカナ言葉はクセモノです。

分かったような気がしていながら、実は基本的な意味を押さえずに使っている場合が多いのではないでしょうか。

「メディア」とは何でしょう。「媒体」と訳されることも多いのですが、それだけでしょうか。

辞書をひくと「媒体」のほかに「手段」という意味も載っていると思います。これまでこの言葉は何に使われてきたかというと、出版メディア、放送メディア、マスメディアなどですね。つまり情報を伝達する手段という意味がそこから見えてきます。

 

このことについてメディア論を作り上げた学者マクルーハンは、「メディアはメッセージである」と主唱し、手段という考え方から更に一歩踏み込んでもいます。

そのあたりも少し心にとめておいて、ここでメディアの歴史を振り返ってみようと思います。

 

まず、最も古いメディアとは何でしょうか。

それは「声」です。泣く、笑う、叫ぶ、唸るなど、そんな「声」が最初のメディアなのです。伝えられるものは喜怒哀楽。インパクトという点では一番強いメディアかもしれません。しかし、複雑な情報は伝えられない。

それで次に「言葉」が生まれました。言葉の登場でかなり複雑な情報を伝えることができるようになりましたが、しかし言葉は発せられると同時に消えてしまいます。そして、その場にいる人にしか伝わらない。

さて、次に生まれたメディアは「文字」です。これで複雑な情報を記録することができるようになりました。保存性もあります。手紙にして遠くの人に伝えることもできます。でも残念ながら複写性がありません。ですから、手で書き写すしかなかったわけです。写本などがそうですね。

もうお分かりかと思います。次に来るものとして、「印刷」が登場したわけです。印刷技術によって大量の複写が可能になりました。手紙だと点と線であった距離が、一気に広い空間に伝達可能なメディアとなったのです。

 

このメディアの発達史をよく見てください。

「声」→「言葉」→「文字」→「印刷」。

この流れには、よく見るとはっきりとした公式があるのが分かります。それは、発達に正比例して伝達空間が拡大すること、反比例して発信者の固有性が希薄になるという公式です。

発信者の固有性というのは具体的にどういう意味かというと、大声で泣いている人を思い描いてみてください。

それから「悲しい」という言葉を発している姿、「私は悲しい」と書かれている手紙、次に「私は悲しい」という活字を順番に想像してみてください。

どんどんその人の存在のありありとした印象が希薄になっていくのがわかると思います。

 

では、次にインターネットを見てみましょう。それは世界中につながるメディアです。これまでのメディアに比べると、画期的に伝達空間が広がりました。

たとえば私は自分のホームページを開設していますが、もともと国内にいる友人たちに読んでもらおうと始めたことなので、国外などということは毛頭考えたことがありませんでしたが、これまで中国やアメリカに住む日本人のかたから感想のメールをいただいたことがあります。非常に奇妙な思いがいたしました。ホームページを全部英文にすれば外国人からもメールが来るのかもしれませんね。

ただ、インターネットはそこに情報を載せるために第三者がチェックするということがありません。そこに書いている人が誰であるか証明してくれる第三者を持たないメディアです。

その結果、いったい誰なのかわからないという意味で、固有性は印刷物よりさらに薄くなってしまいました。

ということはどういうことでしょうか。そうです。インターネットはメディアの発達史に見られる公式に則った予想される発展形態だということです。

当然やってくるべき新メディアとして、これはもう好き嫌いではどうしようもない、無視しようのない次世代メディアだということです。

 

ただ、ご安心ください。すべてインターネットに取って代わられるかというとそうではありません。

すべてのメディアは並列するというのも、メディアのもうひとつの公式と言えそうです。

ネットは特別なものではない、しかしネットにはネットの特性がある、というように捉えておくべきでしょう。

人は何かを伝えたいという欲求を持ち、言葉がありメディアがある限り、そこにはメッセージが書きつけられるのです。

それが紙であれインターネットであれ同じことです。

ただ先ほど申し上げたようにネットでは良くも悪くも匿名が横行しています。

俳句に関してもそれはあって、結社に所属している人であってもネットでは俳号とは別なネットだけで通用する名前、いわゆるハンドルネームを使う人が多いのです。

この現象は、俳句と俳号という関係を考えたとき、なかなか面白いことだと思っています。もともと俳号というのは歴史的に見ると匿名だったのでじゃないか、そうも思うからです。

この匿名というのは無名性とも言えるものです。

 

そうこう考えておりますと、私なぞはひねくれ者ですから、これまでの印刷・出版文化の側からネットを見ていたはずが、逆にネットの側からこれまでのメディアの「常識」を見たらどうなるのか、と考えてしまいます。

私たちの多くは結社に所属しています。

結社誌なり同人誌なりが活字となって毎月か定期的に発行されます。結社誌の場合ならば、主宰の選を経て自分の作品が活字となるわけです。

上位に載るとうれしかったりします。

巻頭だったりすると飛び上がって喜んだりするわけです。

そういう結社誌だけではなく、たとえば新聞の読者投稿欄にはもっとさまざまな人が投稿しているわけですが、こちらも選者がおりまして、その人に選ばれなければ活字になりません。

出版社から出ている総合誌も同じです。読者投稿欄はもちろんですが、そうじゃなく雑誌から依頼される場合であっても、編集者という存在があって初めて活字となるのです。

活字になる。それはイコール第三者による評価が常にそこにあるということです。

それは俳句だけではなく、文芸全般がそうなのです。

当たり前のことでしょうか。しかし一方で俳句は座の文芸だ、なんてことも言うわけですし、大岡信さんは日本の文芸の特徴を「宴と孤心」などと言って多くの共感を得たわけですが、しかし実態はどうでしょう。

活字至上主義になってはいませんか。

自分の作品を活字にすること、それがひとつの目標になってはいないでしょうか。

それは自分の作品を一人でも多くの人に伝えたいというのが表現の原点であれば当然の帰結なのかもしれません。

しかし、少なくとも活字至上主義が俳句の本質ではなく、表現者の目標ではないはずです。

なにかそこには、近代以降の文芸の問題がひそんでいるように思えてなりません。

活字主義は同時に作家主義でもあるでしょう。

 

一方、ネットの世界にある夥しい量の俳句、それは多くは無名の作品であり、またレベルも低いものが多いです。

だからといって、それをもってネットを出版メディアと比べ低く見るというのは活字主義、作家主義にどっぷり浸かった発想なのではないかと思います。

ひょっとすると、ネットは既存のメディアが当たり前のものとしてきた類の価値観を突き崩そうとしているのではないか、そう見ることもできます。

 

 

 

「第二芸術論」の亡霊

 

これまで私たちの価値観を作り上げてきたメディアが大きく変わろうとしているのです。そして今の若い人たちは物心ついたころからインターネットが良くも悪くも身近にありました。なにも第三者の手を借りずとも不特定多数の人たちに向けて表現する手段があるのです。

このことは単にメディアの問題ではなく、作品に対する価値観にさえかかわることになっているのだと思います。

そのとき、これまで当たり前だった価値観をどう捉えなおすのか。それにしがみついてゆくのか、それとも捨ててしまうのか。批判的に再評価、再構築するのか。

それが問われているのでしょう。

そう考えていきますと、もう六十年以上も前の昭和二十一年に発表され議論を呼んだ桑原武夫の「第二芸術論」が本当は非常に重要だったのではないか。

今になってあれをあらためて考えてみる必要があるのではないかと思うのです。

「第二芸術論」を支持しようとしているのではありません。

俳句に関してあれほどトンチンカンな指摘はなかったと思います。

でも、それに対して反発した側もひょっとしたら相当トンチンカンだったのではないか、と思うのです。

あのとき高浜虚子が「何番目かと思ったら、俳句もやっと第二芸術になりましたか」と言ったとか伝えられていますが、その反応がおそらく一番正しいものだったのではないでしょうか。

今頃第二芸術論の話なんかするな、古臭い、と叱られそうですけれど、これがけっこう大事なのでもう少し話します。

 

つまり、桑原さんという人はフランス文学者ですから、西洋文学の考え方が身についてしまっていたわけで、欧米の芸術観をものさしにして俳句や短歌を見て、芸術性が低いと指摘したわけです。

それに対して、俳句の側が自らの文学性や芸術性を主張してしまった。

よく考えてみれば、欧米の芸術観も彼の地においてけっして普遍的な思想ではなく、近代主義の産物にすぎないのです。

桑原さんのような芸術観は、西洋崇拝からきた錯覚ともいうべき思想です。

ひょっとしたらヨーロッパに持っていってもお笑い草だったかもしれません。

そういう意見に対して、相手の土俵の上で相撲をとってしまったのではないか、と思うのです。

 

俳句は本当に文学でしょうか。私は、少なくとも桑原さんの考えていたような文学ではない、と断言したいのです。

じゃぁ何なんだと反駁されそうです。

その前に、文学って何ですか? と問いたいのです。

ふりかえってみれば、明治以降、文学論や芸術論というものの大半は西洋の学問の影響を受けてきました。

そして、小説、評論、詩歌という形で分類整理され文学と呼ぶようになり、そのことがすっかり定着してしまいましたし、芸術というものも西洋芸術を基本においた教育しか受けてきていません。

しかし、その歴史は、この国ではせいぜい百年かそこらのものでしかないのです。

芸術という言葉の意味も近世から近代に移る中で大きく置き換えられています。

郡司正勝の『かぶき発生史論集』によると、群馬の寺に江戸時代に建てられた石碑があって、そこには「禁芸術売買之輩」と書かれているのだそうです。

そのことから江戸時代にも芸術という言葉はあったことが分かりますが、それは今の意味とは相当異なり、香具師や旅の芸能者のような存在を指していたものであったことが、この石碑の存在から知ることができるわけです。

 

文学とか芸術とかいう言葉に迷わされてはいけないのです。

文学なんていう言葉も概念もない、はるか古代からこの国にはウタがありモノカタリがありました。

桑原さんはそれをすっかり無視して西洋的なモノサシで俳句を論じたから滑稽なことになったし、それに対抗する側も実はあまり違わないところで反論したわけで、どっちもどっちだったと私は思います。

虚子はその矛盾に気がついていたのかもしれません。

少少余談になりますが、中上健次という小説家が以前、「俳句は文学ではない。俳句は物語だ」というようなことを言いました。

これは一部の人からは顰蹙をかったようですし、俳人の多くは、どうせ俳句を知らない小説家の言うことだからというので無視したようです。

ところが中上が言いたかったことは、俳句は西洋文学のモノサシでははかれるものではなく、古来から日本にあり続けてきたモノがカタルものなのだと言いたかったのです。

モノという日本語はぜひこれも辞書をひいてみてほしいと思います。「妖怪・怨霊など、不可思議な霊力をもつ存在」という意味が書かれています。

つまり、不可思議な力によって語られるという意味で、中上はモノカタリと言ったのです。これは、この国の伝統詩歌を考える場合に非常に重要なヒントになると思っています。

 

 

国文学史は正しいか?

 

さて、私たちは知らず知らずのうちに作家主義への疑問を持たずに俳句を作り、読み、発表してきました。

伝統派であれ前衛派であれ、それは同じことです。

それを支えてきたのは活字主義であり、出版メディアです。

今、あらわれた新しいメディアであるインターネットは、これまでの私たちの常識の本質的な部分、本質的だと思い込んでいた部分に何か問いかけをしているように私には思えます。

 

それをもう少し深く考えるために、ここで、私は話題を現代から一気に古い時代まで遡らせてみようと思います。

俳句はどこから生まれてきたのか、という問いをしてみましょう。

 

ここから俳人なら誰でも知っている話をします。

俳句という言葉を定着させたのはご存知のとおり正岡子規です。

それ以前は俳諧と呼ぶのが一般的でした。

ではその俳諧はどこから生まれてきたのか。

室町時代に連歌から「俳諧の連歌」が生まれてきたと言われています。

代表的な作家は、山崎宗鑑や荒木田守武です。

では、その連歌はどこから生まれてきたのか。

和歌から生まれてきたといわれています。

和歌とは「古今」「新古今」に代表される王朝文学です。

「古今」以降勅撰集は室町時代までの間に二十一も編纂されました。

また「古今」以前には「万葉集」がありました。

私たちが学校で習ったこの国の文学史から整理するとこうなるのです。

 

さて、これが正しいと思われますか。

もし正しいと信じていらっしゃるなら、あなたは桑原武夫さんと同類です。

この整然とした流れを信じている人は、明治以降の文学という西洋思想に首までつかっている人です。

王朝文学という高い頂から流れ出た文学の川が、次第に下に向かって流れていったという考え方、それは完全に間違っているとも言えませんが、はっきり言わせていただくと、私はこれを嘘っぱちだと思っています。

この歴史の中に、ぞっくりと抜け落ちているものがあるからです。

それは何か。

 

民衆です。

貴族文化がこの国のウタの始まりだと考えるところに大きな間違いがあります。

平安時代の日本人の中で貴族がいったい何人いたというのでしょうか。ほんの一握りじゃないんですか。

彼らが日本のウタを独占していたなどというのは、ありえないことです。嘘っぱちとはそのことです。

本当はどうだったのか。実は私はそのことがずっと気になって調べています。

残念ながら洋の東西を問わず、歴史というものは権力者の側からの視点でまとめられてきました。民衆の歴史は無視されるか、傍系の歴史に追いやられ軽視されてきました。ですから、本当はどうだったのかを知ることは、かなりむずかしいことです。

しかし、よく探してみれば断片的な情報を得ることは可能です。

 

そのひとつとして『梁塵秘抄』を挙げてみようと思います。

『梁塵秘抄』とは平安末期、西暦でいうと一一八〇年ごろに編纂された今様歌謡集です。

編纂したのは後白河法皇。

この人物は鳥羽天皇の第四皇子で、本来ならば天皇になる立場の人ではなかったはずですが、運命のいたずらで天皇、上皇、法皇と長く権力の座につき、当時勃興してきた武家勢力と最後まで権力闘争を繰り広げた歴史に残る帝王だったわけですが、青年期より今様に没頭し続け、ついには今様集全十巻、歌論にあたる口伝集全十四巻という膨大な『梁塵秘抄』をプライベートな今様集として編纂してしまいました。

しかしながら長い間に散逸してしまい、明治四十四年に佐佐木信綱らがその一部を発見したことによって、ようやく日の目を見たような状況で、その内容が一般に知られるようになったのは比較的新しいことです。

 

今様というのは、いわゆる俗謡の一種です。つまり庶民の歌でした。

後白河は当時の王朝の最高位にいた人にもかかわらず、この今様に夢中になってしまったのです。

これは少少、というか大いに異常なことで、今で言えば天皇がロックに狂っているということに等しいものでした。

今に残っている『梁塵秘抄』には五六六首の今様がおさめられていているのですが、その全作品が作者不詳です。

そして研究者によると、今様の作者の大半は遊女だったのではないか、と言われています。

遊女といっても江戸時代のそれとは違いまして、平安時代では女の芸能者のことを言いました。いうなれば芸者さんのほうが近いのかもしれません。

当然、平安時代のことですから、社会的には最下層に属する人人だったのです。

後白河法皇は、そんな中から乙前という名の遊女を自らの師として、彼女の家を御所のそばに建てさせ、今様を伝授してもらったと言われてます。

 

遊びをせんとや生まれけむ

戯れせんとや生まれけん

遊ぶ子供の声きけば

我が身さえこそ動がるれ

             (#三五九)

 

鵜飼はいとほしや

万劫年経る亀殺し

また鵜の首を結ひ

現世はかくてもありぬべし

後生わが身をいかにせん

             (#三五五)

 

わが子は二十になりぬらん

博打してこそ歩くなれ

国国の博党に

さすがに子なれば憎かなし

負かいたまふな

王子の住吉西宮

             (#三六五)

 

これらの歌に代表されるように、遊女の視点は当時の社会の底辺に向いていました。

ですから、農民の歌さえ少なく、海の民、山の民、博徒、巫女などの人人を謡ったものが多かったのです。

そういう今様が、いくら後白河さんが変人であったにせよ、いきなり法皇である人の耳にとどくとは思えず、階級を超えた流行がそこにあったと考えるべきでしょう。

それともうひとつ『梁塵秘抄』が教えてくれる重要な事実があります。

それは、のちの連歌から俳諧が生まれたことで、初めて漢語や俗語が使われるようになったとよく言われていますが、その三百年から四百年も前の『梁塵秘抄』にすでに漢語も俗語も当たり前に使われていたことです。

私は、連歌流行の前に、この『梁塵秘抄』があった意味は重要だと思っています。

 

 

 

連歌の持つ意味

 

さて、平安時代から鎌倉時代に移ります。

中世ですね。和歌にかわって連歌が流行したことを国文学史は教えてくれています。

実はこのとき連歌には二種類あったのです。

それは公家による堂上連歌と、庶民により地下連歌のふたつでした。

皆さんご存知の宗祇や宋長などの連歌師は地下連歌の出身です。

この地下連歌の誕生には、国文学史上ほとんど無視されている社会背景が実はあるのです。

 

ここで話がまた横道にそれるようですが、皆さんは法然や親鸞、日蓮とかの宗教家をご存知と思います。

偉大な宗教家でしたが、この三人は三人ともに鎌倉時代に出てきた人たちでした。

ほかにも道元や栄西、踊念仏の一遍など、非常にすぐれた宗教家がこの時代に集中して登場します。

それはなぜでしょう。

平安時代の仏教は、庶民とは無縁のものだったのです。

律令制では僧が庶民に仏法を説くことは禁じられていました。

当時の庶民の信仰は、いわゆる仏教とは異なる自然崇拝のアニミズム的なものだったようです。

しかし、律令体制が崩壊し、戦乱の時代が続き、それまでの社会的枠組みからはじき出され、あるいは逃げ出さざるをえなかった人人が多数出たのが、この時代だったのです。

時は末法思想の蔓延した時代、当初は仏教とは縁のなかった庶民も、正式の官僧からではなく勧進聖と呼ばれた私度僧によってしだいに仏教を知るようになっていました。

私たちはここで仏教の思わぬ姿を知ることになります。

日本に仏教がまず定着したのは、鎮護国家を目的として貴族のために存在したのです。

仏教が殺生を嫌うというその点を非常に狭く解釈し、海の民や山の民は殺生をするから地獄に落ちる存在だという差別観は残念ながら当時の仏教がそれを助長したというのが事実でした。

まして末法が叫ばれる時代に、生まれながらにして地獄落ちが宿命づけられている人人はどうすればよいのでしょうか。

貴族たちは寺に寄進をして極楽往生を願いましたが、庶民は捨てられていました。

そういう時代だったから庶民の立場の仏教が生まれたのです。

裏返せば、中世とは庶民が権力に頼らず自分で生きていかねばならなくなった時代とも言えるのかもしれません。

自分で生きるといっても力はありません。

資産も財力もないのです。

だからこそ他力の思想が生まれたのでしょう。

 

そんな時代背景の中で地下連歌師が誕生しました。

その代表的なものは「花の下連歌」です。

実はこの連歌というものは、文学史上重要であるにもかかわらず、不思議とあまり重視されずにいます。

和歌や俳諧が重視されているのに比べれば、ほとんど無視されているのではないでしょうか。

 

確かに連歌そのものは王朝文芸と関係はあったと思います。

しかし庶民の中のインテリ層が貴族の真似をして上品に連歌の会をやっていたのかというと、けっしてそうではなかったのです。

では、花の下連歌とは、どこで誰によって始められたのか。

どこでというのは「花の下」という名からも想像がつくわけですが、桜の花の下でした。

それも枝垂桜と決まっていたようです。

「花見をしながら連歌か、風流なものだなぁ」と思われるかもしれませんが、実はそうではありませんでした。

当時の日本人にとって枝垂桜とは、怨念をもって死んだ人の霊の象徴と信じられていたのです。

それを証明するものとして、鎮花祭という風習がありました。花を鎮めるという発想が、花を霊的な存在と考えていた証です。

これは今なお、京都の今宮神社に「ヤスライハナ」という祭りとして伝承されています。興味のある方はぜひ調べてみてください。

 

さて、ではどこの枝垂桜でもよかったのかというと、そうではありません。特定の場所だったようです。

その特定の場所というのは、世俗の権力の管理の及ばない場所のことでした。

どうも私たちは長い江戸幕府の管理社会のイメージで古い時代を見てしまいがちですが、江戸時代より前の日本はもっとルーズでした。

中世日本には、実はどこにも属さない場所というものがあちことにあったようです。

天皇の実質的な支配が崩れ、かわって武士階級が権力者とはなりましたが、律令時代とは異なり、それぞれが領地領土を主張しあうような状況になり、寺社側は寺社側で特定の権力の支配下には入らず、自主管理を主張し権力者と対抗しておりました。

そして他にもどっちつかずの土地というものができて、たとえば街道のように公共性の高い道は誰の領土とも主張できないことも多かったようです。

そうした権力者の力の及ばない空間が、当時の言葉で「公界(くがい)」と呼ばれていました。

こうした土地なり空間は中世の終わりごろから近世にかけてしだいに権力者に潰されてゆきます。

特に江戸幕府の近世においてほぼ壊滅したと言ってもいいでしょう。

 

「駆け込み寺」というのをご存知と思います。

「縁切寺」とも言い鎌倉の東慶寺や上野の満徳寺などが有名ですが、あれも中世の公界のなごりで、江戸時代にもごく限られた寺がその役割を果たしていたわけです。

それも江戸幕府はしばしば管理下におくために介入を繰り返しています。

 

さて、その花の下連歌というのは、そんな公界、あるいは特殊な霊場で行われました。

有名なところでは京都の法輪寺や東山鷲尾の枝垂桜の下で開かれた花の下連歌があります。

では誰によって行われたのか。それは、どのような権力にも支配されていない人、当時「無縁」と呼ばれていた人たちだったのです。

それを現代風に自由人などと言ってしまうと本当の姿は見えないでしょう。彼らは権力の支配から逃げ出した人人でした。

つまり、全てにおいて身分が重要だった時代に身分を持たなかった人人、それが「無縁」です。

彼らは身分外の存在、つまりアウト・オブ・カーストというべき存在で、社会の最底辺に位置づけられていました。

現代でいえばホームレスのような存在とも言えるかもしれませんが、ホームレスと違うのは、それぞれが何かしらの技能を持っていたところです。

木工や土木技術、鍛冶屋、竹細工、革細工、音曲等の芸能、占い、そして連歌師もそういう「無縁」の人間群像の中におりました。

花の下連歌で最も有名な連歌師は、時宗七条道場出身の善阿法師でした。

時宗という宗教集団は鎌倉期に一遍上人という遊行僧によって始められた宗教団体で、流民、病者、被差別民を中心に信者を増やしたアナーキーな念仏宗の一派でした。

時宗僧は生涯を乞食聖として旅に生き旅に死ぬ存在で、その旅の中で生きてゆくための術として、いろいろな技術を身につけていたという特徴を持っておりました。

特殊技能にすぐれた人たちが、阿弥と名乗るようになったのは、この時宗の影響によるものです。

能の観阿弥世阿弥や、刀剣・工芸の本阿弥光悦、蒔絵師の幸阿弥道長などが有名です。

花の下連歌をさばいた人たちは、そうした権力の枠外の無縁と呼ばれる人たちだったのです。

 

そしてさらに、連歌の持つ無縁性をはっきりと示す例を紹介しておきましょう。

それは笠着連歌と呼ばれた連歌です。

花の下連歌と同様に公界で開かれていた連歌の集いで、そこに参加するときに人は身分を隠すのが約束となっていました。

笠を被って顔を隠し、さらには裏声を使って地声を隠すという念のいれようだったと伝えられています。

ここには、実は身分のある、つまり「有縁」の人であってもウタの座につくときには一時的に無縁になるという風習を見ることができます。

 

私は平安末の今様や、中世の花の下連歌、笠着連歌というものを知るにつれて、本来ウタの持つ大衆性とは、ウタの持つ力を信じる民衆が、自分をしばる社会や組織や権力から解き放たれた無縁の存在となり、ウタの力に精神の救済を求めるものだったのではないか、そう思うようになりました。

つまり、歴史学者の網野善彦さんが「公界」をアジール、つまり避難所と呼んだように、ウタそのものが「心のアジール」だったのではないかと思うのです。

私たちがウタの伝統というとき、このことを忘れてはならないのではないでしょうか。

 

 

 

現代とインターネット

 

それではそろそろ現代に戻りましょう。

現代がどういう時代なのか、あと五十年ぐらいたてばはっきりするでしょう。

今、私たちが生きている世界と時代を客観的に考察し定義するのはむずかしいものです。

ただ、日本に関していえば、戦後の混乱期から復興にかけての青年期を七十年代で終え、それ以降安定期というか保守化が進みました。

文化的にはモダニズムが終焉し、ポスト・モダン(モダニズムに批判的な復古主義的な芸術運動)の時代に入ったわけです。

その安定期もつかのま、早くも社会は老年期に入った感があります。

そして安定期に見えた時代は同時に強固な管理社会でもありました。

その管理社会から離れるのは孤立を意味する時代だったのではないでしょうか。

それは一見うまくいっているように見えたのですが、管理社会そのものがある種の制度疲労を起こし、自ら崩れ始めています。

 

世界的な傾向なのでしょうか、宗教がこの国でも強く求めらるようになりました。

狂信的なカルト集団が事件を起こしもしましたが、そんな極端な例ではなくとも、四国遍路をする人が爆発的に増加していることからもわかります。

また、孤立した人人が起こす信じられない事件の増加も管理社会の崩壊を示唆しているようにも見えます。

これはどこか平安末期の日本に似ています。

そして管理社会からはじきだされた人たちの発言はネットというメディアに向かって吐き出されているようにも見えるのです。

ネットが魂の避難所になっているのではないか。

すみずみまで管理されていた社会、その弱体化によってはじき出された人たちがネットという「公界」に「無縁」の人となり逃げ込んでいる。

管理社会には現実的で物理的なアジールがないのです

だからネットが数少ない、あるいは唯一のアジールなのかもしれません。

やや誇張しているところもありますが、そんな状況に今立ち至っているように思えます。

 

そんな時代に文芸はこれからどうなってゆくのか。

管理社会が疲弊してしまったように、既存の文芸団体も一般に衰えつつあります。それはここにお集まりの皆さんが多かれ少なかれ感じていることではないでしょうか。

結社もそうですし、現代俳句協会もそうではないですか。

停滞感はぬぐえないものがあります。

その反面、ネットではレベルの問題はさておき、少なくとも俳句は奇妙な盛況を呈しているのです。

インターネットは、以前はもっぱら若年層の利用者中心であったものが、普及が進んだことで年齢層もずいぶん幅が出てきました。

団塊の世代が現役をしりぞき出した昨今は特にその世代が流れ込んできているのかもしれません。

これまでインターネットにあらわれる文芸作品はほとんど注目されませんでした。

確かにレベルが低い落書のようなものが多かったのも事実です。しかし、ここに来て多種多様な状況が生まれてきています。

インターネットは第三者の力によって選別されることのないメディアですから、層が広がれば広がるほど、そこは混沌とした世界になってゆきます。

まさに現代の「公界」とも呼ぶべき世界です。

私が長長と中世のお話をしたのは、インターネットという新しいメディアを現代の「公界」として評価してみたらどうだろうかと言いたかったのです。

ウタのアジールの復活として見ることはできないでしょうか。

 

 

 

混沌から生まれてくるもの

 

さきほど混沌といいました。

では混沌しかないのか。

いや、混沌にこそ新しいものが生まれてくる土壌があるはずです

 

これまで混沌さだけが目立ったインターネットの世界で今、また新しい、そして非常に興味深い動きが出てきました。

ご存知のかたもいらっしゃるかと思います。

「週刊俳句」というWEBマガジンの登場がそれです。

WEBマガジンというのはインターネットで読める雑誌のようなものです。

さいばら天気と上田信治という私と同世代の東京の俳人が仕掛け人となって二〇〇七年四月に創刊され既に百号を超えています。

さいばら天気さんは現代俳句協会の会員でもあります。

これまでインターネットでの俳句サイトといえば個人のページか、結社や団体の公式ホームページが大半だったところに、天気さんと信治さんが編集者となり、いろいろな作家に原稿を依頼し、それをパソコンで読める雑誌として、しかも毎週ネットで発行しているのです。

たまたまの縁で、創刊時に声をかけられ私も執筆陣に入っています。

執筆者の顔ぶれは実に多彩で、若い書き手ばかりではなく、池田澄子さんや桑原三郎さん、八田木枯さんのような大ベテランも寄稿しています。

宣伝に聞こえるかもしれませんが、俳句総合誌より面白いのです

この「週刊俳句」はさまざまの作家たちに俳句作品や評論、エッセイなどの発表の場を与えています。

与えたというか、総合誌と違って編集者からの一方的な依頼だけではなく、自分の作品を載せてくれという作家側からの要望にも応えています。それだけでも十分面白い試みです。

さらに注目したいのは、若い作家に発表の場を積極的に与えていることです。

いくつか例をあげてみましょう。

 

 たましひを求めしからだ葡萄食ふ     越智友亮

 雪崩来るはじめは母の向かうより     高崎壮太

 君等の笑う秋葉原なら季語にもなる   佐藤文香

 絵扇の中へ帰れぬ子供かな        山口優夢

 林檎より重たきものを思ひをり       谷雄介

 

これらの句は、「週刊俳句」に作品発表されたものから選びました。

越智君と高崎君は、実は十七歳の高校生です。

佐藤、山口、谷の三氏も二十三歳という若い作家です。

彼らは表現の場を求めていて、同じような作家がほかにもまだまだいるのです。

私は「週刊俳句」をとおして、結社所属、無所属にかかわらず、たくさんの有望な十代二十代の作家たちの存在を知ることができました。

今や、この「週刊俳句」発表を機に総合誌に登場することになった若手作家も出てきています。

これまでインターネット上の俳人や俳句は個個にバラバラで、拡散している印象があったのに、「週刊俳句」の登場で、ネットという新しいメディアの中に求心力のある場が出てきたのです。

このごろの角川の『俳句』や文学の森社の『俳句界』などを丹念に読めば、誰かが「週刊俳句」のことに触れているのを見つけるようになりました。

ところで、この「週刊俳句」は無料で読めて、そのかわり寄稿者には一円も原稿料は支払われません。

いうなればボランティアでやっているのです。

ところが読者数は俳句総合誌をはるかに凌駕してしまいました。

一日のアクセス数が一万件を超える日もあるのです。

ついにネットから俳壇に影響を与える動きが起き始めたのです。

こうした動きに当初は懐疑的だった出版業界も、どうやらこの動きを利用するほうが得策と考えはじめたようで、積極的に取り上げ始めています。

私はこうした動きが、これまで当たり前のこととして従来のあり方を無批判に継続してきた俳句世間、出版業界や結社、団体をいい意味で揺さぶる状況を生み出してくれればいいと思っています。

大衆の文芸は、大衆の側から作られる。考えてみれば当たり前の話であります。そこにこそウタの本質があるのです。

 

私たちは詩人です。私たちは俳人です。

けっして組織人ではありません。

結社も協会組織も本来、作家がよりよく表現活動ができるためにあるものです。

そして、ウタというものは身分を捨てて、言葉の力を信じ、魂を救済するために生まれたものだと私は思っております。

けっして権威や権力や組織のためにあるものではなく、無名の民衆の心の中から溢れ出るものだと信じています。そうして現在の状況を見ると、停滞に見えているものは実は混沌なのだと思うのです。

結社も協会組織も今後、この混沌をどう受け止めてゆくか、一人ひとりの作家は、作家主義や活字至上主義から自らを解放しウタの原点に立ち返ることができるのか、インターネットに代表されるメディアの変革は俳句にそれを問いかけているのだと思います。

 

小川軽舟さんは「俳句はさしあたりどこへも行かない」と言いましたが、俳句はウタの原点に帰ることで、帰らざるをえないところから、あらたな時代をきっと作るに違いない、そう私は信じております。

 

長くなりました。以上で私の話を終わらせていただきます。

ご清聴ありがとうございました

 

(第十八回中北海道現代俳句大会 講演記録 『雪華』平成21年3・4月合併号収載)

 

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