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寺山修司俳句論 - 私の墓は、私のことば -

                           五十嵐秀彦

 

 

第一章 序論

 

早熟の天才歌人。 

これは、寺山修司に与えられた限定的「称号」である。限定的というのは、寺山の業績が短歌に限らず、きわめて広範囲なものであるからだ。 

まず短歌で世に出て、その後さまざまな文芸・芸術ジャンル(詩、小説、戯曲、映画、演出、競馬評論、作詞、等等)を駆け抜け、今では「職業・寺山修司」などという表現さえ見かける。彼のように多方面にわたって活躍した作家を語ることは非常に難しい。その全てについて語ることは、私の能力をはるかに超えたものになる。この稿で取り上げるのは寺山の俳句作品である。 

 

寺山没後二十年にあたる今年(二〇〇三年)、寺山俳句の魔術のような魅力によって俳句の森に踏み迷うこととなった私にとっての原点を、あらためてとらえ直そうと考えた。論を始める前に私は次の問いかけをしたい。 

寺山修司の業績の中に、俳句の占める位置はどのようなものであったか。その疑問に立って寺山の文学歴を振り返った時、俳句はあたかも「前史」という扱いに終わっていることに気づかされる。短歌の前に位置し、少年時代の寺山修司の文芸揺籃期として位置づけられているとするのが通説である。それは事実なのだろうか。イエスでありノーでもある、そのことを本稿にて論じたい。それがひとつ。 

 

次に、俳句を寺山文学の揺籃期として見た時、寺山修司という稀有なまでに(ある意味前時代的なまでに)神話に彩られた作家の原型がそこにあるとされている。つまり「故郷」「母」「父」などの俳句がそれだ。反面、前衛的作品群というとらえかたもある。寺山修司は戦後文学の巨人であり、同時に活字の世界に収まらず演劇を通して現実世界に干渉し、さらに映像という現代的な媒体を通して表現し、限りなく時代の前衛であった。人はその視点に立って少年修司の俳句作品を愛すべき前衛小品としてとらえている傾向がある。このことについて、私は、俳句作品が寺山修司にとってけっして「前史」的存在ではないことを述べると同時に、「前衛」でもなければ「異端」でもないことを本稿において証明したい。寺山俳句は定型短詩としての俳句の本質からけっして離れたものではない。離れているどころか、詩型としては保守的なスタンスをもってその特性を積極的に活用していたのではないか。これが本稿の二つ目の課題である。 私は、ここで寺山修司の俳句についてのみ論じてみたい。

 

 

第二章 神話の原型

 

寺山がこの世に残した句集はけっして多くはない。投稿句は別として、出版された俳句作品は次の通りである。

『われに五月を』(昭和三十二年二十一歳)

『わが金枝篇』(昭和四十八年三十七歳)

『花粉航海』(昭和五十年三十九歳)

『わが高校時代の犯罪』(昭和五十五年四十四歳)

 

句集発行前後の寺山の活動を見てみることにしよう。まず『われに五月を』だが、この出版の前年、寺山は重いネフローゼとなり、何度か重態におちいっている。早稲田大学も中退しているが、すでに三年前に「チェホフ祭」によって天才青年歌人としてはなばなしくデビューしており、その縁で中井英夫らの後ろ盾を得て、この作品集が世に出ることになった。中井は寺山の葬儀の際の弔辞でそのことに触れている。 

 

《岡井隆氏の診立てではもう絶対に助からないといわれ、この稀有な才能を何とか地上に留めたいと、友人の作品社社主にいって、詩と短歌と俳句とを一冊にまとめてもらいました。それが『われに五月を』という、寺山氏のはじめての作品集です。》(中井英夫) 

 

『われに五月を』ではのちの寺山の「老獪」な詐術はあまり見られず、ストレートな青春詠がそこに読み取れる。寺山俳句をほぼリアルタイムにとらえた唯一の句集(厳密には作品集)である。次の『わが金枝篇』『花粉航海』を出した頃、寺山は既に演劇実験室「天井桟敷」の主宰者であり、『書を捨てよ、町にでよう』や『家出のすすめ』などのエッセイ、小説『ああ荒野』、あるいは映画『田園に死す』などの作品により注目され、「青年の教祖」と言われるようにさえなっていた。寺山修司は自ら築き上げた寺山神話の真っ只中で句集『花粉航海』を刊行したのである。 

寺山はこの『花粉航海』を過去形の句集として世に出した。それまでにも、俳句によって文学に目覚めたことを何度も発言し、書いている。 

 

《中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは、俳句であった。この亡びゆく詩型式に、私はひどく魅かれていた。》(寺山修司『誰か故郷を想はざる』「十七音」より) 

 

《十五歳から十九歳までのあいだに、ノートにしてほぼ十冊、各行にびっしりと書きつらねていった俳句は、日記にかわる「自己形成の記録」なのであった。》(寺山修司『黄金時代』「次の一句」より) 

 

寺山が俳句と出合ったのはこれらの発言から中学時代ということになるだろう。寺山は昭和二十三年に古間木中学校に入学したが、秋に青森市立野脇中学校に転校し、文芸部部長となり、学校新聞などに童話・詩・俳句などを発表した。 

 

《便所から青空見えて啄木忌/こんな俳句を作ったのが、中学校の一年生のときであった》(寺山修司『誰か故郷を想はざる』「美空ひばり」より) 

 

本人はそう言っているが、どうもそれは事実ではない。中学一年のころから優れた俳句を作っていたという神話のためについた彼の小さなウソである。「啄木忌」の句は初出が高校三年の昭和二十八年「青い森」(学生サークル「山彦俳句会」の句誌)であり、その前年の手製自選句集「べにがに」にこの句は載っていない。ただ、中学時代から文芸という自己表現への意欲はけっして小さなものではなかったのだろう。中学時代の作品として明らかになっている句には以下のような作品がある。 

 

空遠く眸に浮ぶ母の顔 

戸も屋根も冴えて輝く雨上り 

残雪のとけて流れぬ春の道 

窓あけて吹きこむ風ぞ春寒し 

 

これらの句は、やはり稚拙な句と言わざるをえず、すでにここで母の句が出てきている以外に注目をひくものはない。

寺山を俳句に強く引き寄せることになったのは、中学・高校の同級生京武久美の影響が大きかったようで、そのきっかけについて二人がそれぞれ次のように書き留めているのは面白い。 

 

《ある日、同級生の京武久美が一冊のリトル・マガジンを持って、にやにやしていた。「どうしたのだ?」と訊いても答えない。そこで、私は無理矢理にそのリトル・マガジンを引ったくって、ひらいてみた。それは青森俳句会という無名の小結社の出している「暖鳥」という雑誌であったが、そのなかの「暖鳥集」という欄に、京武久美という名と、彼の俳句が一句印刷されてあるのだ。私は、麦畑でひばりの卵でも見つけたように「あ・・・」と素頓狂な声を出した。京武の名前が活字になって、「もう一つの社会」に登録されているということは、私にとっては、思いがけぬことであった。》(寺山修司『誰か故郷を想はざる』「十七音」より) 

 

《中学時代、俳句に見向きもしなかった寺山だったが、高校一年の夏、ぼくの俳句が地方新聞に掲載されたことから、競争意識をむきだして、急に俳句に熱中し出した。ぼくとの格闘がはじまったのである。》(京武久美「高校時代」より昭和58年) 

 

そうして高校時代の寺山の句作が本格化する。寺山文学の始動であった。確かにこの時期が彼の文芸の揺籃期であることは事実である。そして、この事実がその後の寺山神話の自作自演の原型をなしている。 

「高校生俳人・寺山修司」というドラマを、寺山は句集『花粉航海』を中心にして描き上げようとした。寺山は俳句実作を二十歳の時に止め、一顧だにしなかったと自分で言っている。そして約二十年後に、高校生時代の俳句をまとめて刊行したのが句集『花粉航海』である、というシナリオだ。『花粉航海』の後書き(「手稿」)にはこんなことが書かれている。 

 

《ここに収めた句は、「愚者の船」をのぞく大半が私の高校生時代のものである。》 

 

いかにも寺山らしい屈折した文章ではないか。 

《「愚者の船」をのぞく大半が》、ということは、裏返してみれば「愚者の船」以外にも新たに俳句を作ったと言っているようにも受け取れる。しかし寺山はそれ以上を語らない。例によって意図的に謎を作ろうとしたと受け止めるべきだろう。そのことの整理は、後年、『寺山修司俳句全集』の中でほぼ明らかにされている。明らかにできた背景として、寺山が高校時代にその俳句作品を実に熱心に投稿していたという事実がある。その投稿時代の痕跡をたどることで、逆に句集刊行時に寺山が補完した句が浮かび上がってくるのである。

 

 

第三章 句集『花粉航海』の解析

 

【アリバイの無い作品群】 

私は今回『花粉航海』を読み解くに当たって『寺山修司俳句全集』(あんず堂)を主な資料として、『花粉航海』の二百三十句を、高校時代のアリバイのある作品群と、句集発行以前に発表された痕跡のない、つまりアリバイのない作品群の二つに分けることにした。前者をA群(高校時代の作品)、後者をB群(アリバイのない句)とする。

 

句集『花粉航海』は九章二十三節の構成となっている。まず両群の句数を章・節別に整理した。

「草の昼食」「十五歳」 A群:七句 B群:三句

「午後二時の玉突き」 A群:五句 B群:五句

「地上」 A群:七句 B群:三句

「幼年時代」 「暗室の時」 A群:二句 B群:九句 

「愚者の船」 A群:〇句 B群:十句

「左手の古典」 「啄木歌集」 A群:八句 B群:二句 

「無人飛行機」 A群:四句 B群:六句 

「青森駅前抄」 A群:七句 B群:四句

「鬼火の人」 「ひとさし指」 A群:一句 B群:九句 

「髪地獄」 A群:〇句 B群:十句

「望郷書店」 「車輪の下」 A群:十句 B群:〇句 

「書物の起源」 A群:六句 B群:四句 

「中学校漂流」 A群:九句 B群:一句

「だまし絵」 「かもめ」 A群:二句 B群:八句 

「出生譚」 A群:五句 B群:五句

「狼少年」 「わが雅歌」 A群:六句 B群:二句 

「田舎教師」 A群:七句 B群:三句 

「母音譚」 A群:六句 B群:四句

「憑依」 「魔の通過」 A群:二句 B群:八句 

「敗北」 A群:四句 B群:六句 

「スペインに行きたい」 A群:二句 B群:八句

「少年探偵団」 「蜜」 A群:五句 B群:五句 

「花粉日記」 A群:〇句 B群:十句 

 

以上合計すると、全句二百三十句中、A群百五句、B群百二十五句となる。 

確かに寺山が言ったように「愚者の船」は全句B群である。だが、ご覧の通り「髪地獄」「花粉日記」のように全てB群の節が他にもある。そしてB群が全体の中で五十四%を占めているのである。つまり半分は高校時代の作品群であり、残りはアリバイのない作品群で構成されている。高校群の句の中に巧みに不明群の句がまぎれこんでいるわけだ。しかし寺山は《「愚者の船」をのぞく》と言っている。そこに読者をミスリードしようとする寺山の意思を感じる。ここに寺山神話セオリーのひとつを見つけることができるのではないか。 寺山の虚構の特徴のひとつに、多少なりとも事実が入っていることはよく知られていることである。一部に事実を含みながら、その事実を誇張することで「寺山修司」という半架空の文学人格が作られる。句集『花粉航海』にもそのセオリーがどうやら当てはまるようだ。 

 

さらによく読むと次の重要な事実が分って来るのだった。 

 

【プロットの罠】 

『花粉航海』は寺山いわく、高校時代の俳句作品を深夜叢書社の齋藤愼爾のすすめでまとめたという趣旨の句集であって、全体が九章二十三節で構成され、その全てに小題が付けられている。小題を見ていくと、俳句で綴った寺山修司の少年時代の自伝的句集という体裁であることに気づく。  

その小題が読み込まれている句を調べてみよう。

 

「草の昼食」 「十五歳」 

十五歳抱かれて花粉吹き散らす  (B)

同 「午後二時の玉突き」 

午後二時の玉突き父の悪霊呼び  (B)

同 「地上」 

朝の麦踏むものすべて地上とし  (B)

「幼年時代」 「暗室の時」 

暗室より水の音する母の情事   (B)

同 「愚者の船」 

大落暉わが愚者の船まなうらに  (B)

「左手の古典」 「啄木歌集」 

便所より青空見えて啄木忌    (A)

同 「無人飛行機」 

テレビに映る無人飛行機父なき冬 (B)

「鬼火の人」 「ひとさし指」 

秋風やひとさし指は誰の墓    (B)

同 「髪地獄」 

母とわが髪からみあう秋の櫛   (B) 

売郷奴いぼとり地獄横抱きに   (B)

「望郷書店」 「車輪の下」 

車輪の下はすぐに郷里や溝清水  (A)

同 「書物の起源」 

書物の起源冬のてのひら閉じひらき(B)

「だまし絵」 「かもめ」 

書きとめしわが一瞬を老かもめ  (B)

同 「出生譚」 

絹糸赤し村の暗部に出生し    (B)

「狼少年」 「わが雅歌」 

蝶とんで壁の高さとなる雅歌や  (B)

同 「田舎教師」 

香水のみの自己や田舎の教師妻  (A)

同 「母音譚」 

黒穂抜き母音いきづく混血児   (A)

「憑依」 「魔の通過」 

汽車が過ぎ秋の魔が過ぐ空家かな (B)

「少年探偵団」 「蜜」 

暗き蜜少年は扉の影で待つ    (B)

同 「花粉日記」 

自らを浄めたる手に花粉の罰   (B)

 

「左手の古典」の「青森駅前抄」と、「望郷書店」の「中学校漂流」、「憑依」の「敗北」「スペインに行きたい」の、四つの節には表題の言葉を直接詠み込んだ作品は見当たらなかった。 

さて、上記を見て明らかなように、節の表題の大半がB群の作品によっているのが分かる。二十三の節のうち句から題が付けられたと思われる節が十九あり、それらの句の中であきらかに高校時代の句と特定できるものは四句しかないのである。 

このことから、自伝的句集であり高校時代の作品をまとめたものと言われている同句集が、その編纂時にアリバイの無い句(B群)に重点を置いたプロット作りで成り立っていることが分かる。つまり事実としてのメモリアリズムではなく、後日意図的に創られた架空のメモリアリズムによる「自伝」句集であるのではないか、という仮説が自然と立ち上がってくる。 

 

【季語観の比較】 

次にA・B両群を比較して特徴的な季語について挙げる。

○A群になくB群にある季語 

秋まつり/蝸牛/花粉/木の葉髪/鶴/春怒濤/蛍/鵙の贄 (複数あるもののみ)

○A群にもあるがB群で特に多い季語 

冬(十三句)  (A群では三句)

○A群にありB群にない季語 

揚羽/蟻/落葉/小鳥/たんぽぽ/チエホフ忌/花/ラグビー/林檎 (複数あるもののみ)

○B群にもあるがA群で特に多い季語 

桃(五句)   (B群には一句) 

 

ここに読み取れることは、A群の「チエホフ忌」が短歌「チエホフ祭」につながっていると思えること、「冬」という季語の多用に見られるB群俳句の心理的な屈折、「蛍」「花粉」というこの句集を代表する季語がB群のみのものであること、などである。 

A群の俳句作品が「チエホフ祭」に繋がっていくことの具体的な証明は二つあとの節【自己模倣の経緯】で詳述する。B群について、単純に季語だけを抽出した議論をしても収穫はあまり多くはないだろうが、それでも右の例からB群が句集『花粉航海』の主たるイメージを作っていることは見当がつく。 

単純に歳時記掲載の季語を使ったかどうかを調べることより、私は寺山が季感をどうとらえていたのかに、より興味をひかれる。寺山自身は季語についてどのように考えていたのだろうか。後年、俳誌『蘭』のインタビューで、寺山はこんな発言をしている。 

 

《花鳥風月への関心も、その内実は、婦人靴に対する中年男のフェティシズムと変わることがなくて、そこで詠われる花にしても鳥にしても、それはある意味では剥製とかプラスチックのような人工性をもっている。そして、そのことによって不気味な、ある意味で一つの詩になってくるんじゃないか》(「俳句、その出会いとわかれ」 『蘭』昭和五十四年四月号) 

 

また同インタビューの中でこうも言っている。 

 

《『季語』というのは、見事に呪物です。》(同上) 

 

この発言は、寺山俳句にとってきわめて重要である。それは次節で触れる寺山の「言語感覚」に直結したものであるからだ。 

 

【使用名詞の比較】 

寺山修司の俳句も短歌も難解さという点で見た場合、どちらかといえば分かりやすいほどと言ってもいいだろう。前衛的表現が風潮であった時代の中にあり、時代そのものをリードしていたにもかかわらず、寺山俳句は難解性から奇跡的に遠いという印象を私は持っている。たとえば、加藤郁乎の初期の俳句と比較してみれば歴然とするのである。寺山が『戦後詩』で引用した加藤郁乎の句は次の三句だった。 海はなくとも帆は帰る、折りの鏡身のかひやぐら ななかまどの下では一切他律の痔が出る 火山学の白鳳仏に及ぼした春さきを思ふ 寺山は加藤俳句の世界を否定しなかったが、《「大衆」は、はじめから圏外におかれている》(寺山修司『戦後詩』より)と指摘することで、かえって自らが立つ場所を明確にした。寺山俳句の立場とは、叙述の具体性にあると考える。叙述の具体性とは、いいかえれば一句の中の物語性とも言える。ここに寺山の面目が発揮されていることを見逃すわけにはいかない。寺山は、一句の中の詩性を確かにするための言葉を重視していた。そしてそれはあくまでも読者に語りかける言葉でなければならなかった。 

その意味で、私は寺山が好んで使用したと思われる「言葉」を、高校時代のアリバイのある句(A群)とない句(B群)の二群で比較してみた。

 

(A群)愛/逢びき/祈り/オルガン/家系/北の男/教師/綺羅/暗き桶/黒髪/高校生/荒野/五月の鷹/故郷/告白/古書売る/車輪/少女/水兵帽/梳く髪/台詞/卒業歌/ソネット/他郷/旅人/チエホフ忌/地の糧/長子/罪の日/鉄棒/道化/同人誌/友/ノラ/花売車/番人/棺/火を創る/母音/混血児/望郷/頬傷/燃ゆる頬/流灯/レーニン祭 等

 

(B群)悪夢/悪霊/あやとり/暗部/遺失物/売郷奴/王國/狼少年/蛾/鍵穴/かくれんぼ/花粉/神/髪地獄/癌/眼帯/鏡台/櫛/愚者の船/言魂/荒野/消し人形/戸籍抄本/犀/詩人の死/私生児/死蝶/情事/神学/数理/畳/剃刃/溺死/デスマスク/鉄仮面/伝記/銅版画/独裁/日蝕/敗北/罰/ひとさし指/人妻/文法違反/辺境/法医學/魔/蜜/みなしご/無人飛行機/迷路/目かくし/わが死後 等 

 

A,B群ともにイメージの喚起力の強い言葉が使われている。 

こうして比較してみると、A群には明るい言葉(青春的)が比較的多く使用されているのに対し、B群では「悪霊」「暗部」「遺失物」「売郷奴」「地獄」「癌」「愚」「溺死」「魔」などの魂の暗部を指し示す言葉が多くなっている。 

これらのドラマの小道具的な言葉への嗜好を感じさせる名詞が、一片の事実を内包した虚構の物語性の中に巧みに配置されている。それは相互に響き合い干渉し合い反発しあって、非連続性・非日常性を作り出しているのである。 

ここには句集『花粉航海』発刊の一年前に公開された映画『田園に死す』のイメージのアレゴリーが豊富に含まれていることにも注目すべきである。たとえば、「畳」「かくれんぼ」「子消し人形」「情事」「溺死」「ひとさし指」「人妻」等は、映画の中に頻出するイメージ、或いは印象的に提示されたイメージなのである。 

A群とB群の間にはもちろん共通した言語感覚も見られるが、B群の言葉の持つ喚起力はA群のそれより数段優っている。この比較検討は乱暴すぎることは認めるし、一語からではその効果を読むこともできない。言葉は前後のそれとの間に屈折するものだからだ。しかしながら、このような乱暴な方法をもってしても、B群の句の作成時期がA群と同じではないことを十分想像させるものであると考える。 

 

B群の句というものが後年の作品であるという仮説を補強するために、更に私は寺山の短詩(俳句・短歌)の変遷を次のように捉えなおしてみた。 

 

【自己模倣の経緯】 

まず第一歌集『空には本』(特に「チエホフ祭」)における高校俳句(『花粉航海』A群)との類似に注目した。

 

○「チエホフ祭」に見られるA群俳句との類似 

桃いれし籠に頬髭おしつけてチエホフの日の電車に揺らる 

・チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き 

 

チエホフ祭のビラのはられし林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび 

・林檎の木ゆさぶりやまず遭いたきとき 

 

桃うかぶ暗き桶水替うるときの還らぬ父につながる想い 

・桃うかぶ暗き桶水父は亡し 

 

かわきたる桶に肥料を満たすとき黒人悲歌は大地に沈む 

・黒人悲歌桶にぽつかり籾殻浮き 

 

音立てて墓穴ふかく父の棺下ろさるる時父目覚めずや 

・枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや 

 

桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩 

・桃太る夜は怒りを詩にこめて 

 

この家も誰かが道化者ならん高き塀より越えでし揚羽 

・この家も誰かが道化揚羽高し 

 

むせぶごとく萌ゆる雑木の林にて友よ多喜二の詩を口ずさめ 

・多喜二恋し桶の暗きに梅漬けて 

 

ノラならぬ女工の手にて噛みあいし春の歯車の巨いなる声 

・寒雀ノラならぬ母が創りし火 

 

「チエホフ祭」(昭和二十九年十八歳のとき、短歌研究新人賞を受賞し、のち昭和三十三年二十二歳のとき第一歌集『空には本』に収められた)が、高校生時代の寺山俳句(『花粉航海』A群)にイメージの面でも表現そのものでもいちじるしく類似していることが右の引用からはっきりと分かる。そのこと自体今更発見ではない。重要なのは、そのもととなっている俳句が『花粉航海』のB群の中にはほとんど見当たらないということだ。 

『空には本』以降、寺山は第二、第三歌集を出してゆく。その第三歌集『田園に死す』(昭和四十年、寺山二十九歳)が寺山文学の核となり、そこから戯曲や映画へと表現の広がりを示していった。そして映画『田園に死す』が昭和四十九年三十八歳の時、公開されたのである。その翌年、句集『花粉航海』が刊行された。 

 

次に、『花粉航海』B群の俳句に見られる第三歌集『田園に死す』との類似について調べた。

 

○B群俳句に見られる、歌集『田園に死す』との類似 

売郷奴いぼとり地獄横抱きに 

・売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき 

 

眼帯に死蝶かくして山河越ゆ 

・夏蝶の屍ひそかにかくし来し本屋地獄の中の一冊 

 

法医學・櫻・暗黒・父・自涜 

・中古の斧買ひにゆく母のため長子は学びをり法医学 

 

夕焼に畳飛びゆくわが離郷 

・畳屋に剥ぎ捨てられし家霊らのあしあとかへりくる十二月 

 

母とわが髪からみあう秋の櫛 

・売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を 

 

母の蛍捨てにゆく顔照らされて 

・トラホーム洗ひし水を捨てにゆく真赤な椿咲くところまで 

 

かくれんぼ三つかぞえて冬となる 

・かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭 

 

B群の句に第三歌集及び映画『田園に死す』のイメージが隠れていることが上記引用から見て取れる。A群の句と「チエホフ祭」短歌作品の類似は直接的であったが、『田園に死す』とB群の類似はより屈折し、イメージの断片によってつながっている。しかしそこに通底するものを見つけることはけっして難しくはない。 

このことからもB群の俳句が三十代後半の寺山俳句であることが明瞭になってくる。つまりA群の高校時代の俳句作品があり、次に短歌集「チエホフ祭」があり、第二歌集『血と麦』第三歌集『田園に死す』へと繋がり、その文学世界を基盤として演劇・映像等の世界へ展開し、映画『田園に死す』となり、それがB群の俳句作品を生み出し、AB両群を寺山独特の過去のかきかえ作業をもってして句集『花粉航海』に結実させたのである。 

高校生俳人、寺山文学の前史としての俳句―青春俳句。これらのとらえかたが、寺山自身の思惑通りではありながら、片手落ちな評価であるとも言える。私は、このB群の俳句の中に、俳句との暗闘とも言うべき寺山の孤独な闘いを見る。 

 

寺山の俳句との別れについては、深谷雄大が、《彼は、困難な形式の最も困難なところを追究しないまま、発表の舞台を短歌に移してゆく》(「寺山修司の原点」『現代詩手帖』平成四年五月号)と表現した。寺山自身にもそのような自覚があったのではないか。彼にとって未完の詩型となった俳句への、身を焦がすような思いがこの句集には溢れている。自らの神話の中で俳句を過去形として語りながら、なにゆえ晩年あれほどまでに俳句に戻りたがっていたのかの解がここに隠されていると考える。

 

 

第四章 寺山俳句の特性

 

【私性の超克】 

前章で私は『花粉航海』に隠された文学的事実について、自分なりに解析したつもりである。次に、寺山俳句の特性について考えてみたい。 

寺山は俳句の私性と連続性とを批判した。個人的なメモリアリズム、私性の桎梏の中にあって、俳句が現代の詩となりえないと主張している。では俳句は私性の詩ではないのか。寺山はそうは言っていない。つまり私性をどうとらえるかにある。ここにエピソードがある。寺山が初期に発表した短歌作品「母逝く」で、彼はこんな作品を詠んでいる。

 

母もつひに土となりたり丘の墓去りがたくして木の実を拾ふ 

音たてて墓穴深く母のかんおろされしとき母目覚めずや     (「母逝く」より 「東奥日報」昭和二十六) 

 

この作品が発表された後に、寺山は周囲からお悔やみを言われたそうである。彼はただ薄笑いを返しただけだった。文学世界での作られた私性の迷宮を彼はこの「母逝く」によって知ったのに違いない。寺山は俳句作品でも同様の傾向で作り続けた。そこに重要なポイントがある。寺山俳句のよって立つところは、あくまでも「私」性なのである。それが作られたものであれ事実であれ、「私」性であることにいささかの揺れも無い。寺山の短詩型作品が読者の心を深く掴むのは、そこにあると言ってもいいのである。寺山は虚構の「私」性の中に真を見ようとしていたようだ。 

 

《ホントより、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。》(寺山修司『さかさま世界史』より) 

 

つまり寺山にとって「私」性とは自ら書いた自分の「神話」であり、「母」「父」「故郷」という自伝的事実に最大限の虚構の屋根をかけることだったのである。 

寺山文学の象徴でもあるこの「母」「父」「故郷」の句について更に『花粉航海』を見てみよう。

 

○「故郷」の句

(A群)

夏井戸や故郷の少女は海知らず

草餅や故郷出し友の噂もなし

わが夏帽どこまで転べども故郷

にわかに望郷葱をスケッチブックに画き

沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは

 

(B群)

売郷奴いぼとり地獄横抱きに

夕焼に畳飛びゆくわが離郷

芥子を踏むすでに他郷に散りぬるを 

 

A群については、故郷へのストレートな思いが表現されているのに対して、B群では「売郷」「離郷」という屈折した表現へと変化している。 

故郷について寺山はこう言っている。 

 

《ふるさとと、そこを「出た」人間との関係は、どっちに転んでも裏切者になるほかないのだ》(寺山修司『浪漫時代』より)

 

○「父」の句

(A群)

桃うかぶ暗き桶水父は亡し

麦の芽に日当るごとく父が欲し

父と呼びたき番人が棲む林檎園

 

(B群)

父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し

冬髪刈るや庭園論の父いずこ

冷蔵庫の悪霊を呼ぶ父なき日

手で溶けるバターの父の指紋かな

法医學・櫻・暗黒・父・自涜 

 

父の句についてはB群の作品に圧巻と言えるほどの鋭い言語感覚が見られる。フィクショナリズムを更に超えた象徴化への意思さえ感じられる。

 

○「母」の句

(A群)

母は息もて竈火創るチエホフ忌

花売車どこへ押せども母貧し

浴衣着てゆえなく母に信ぜられ

蜻蛉生る母へみじかき文書かむ

寒雀ノラならぬ母が創りし火

 

(B群)

暗室より水の音する母の情事

母を消す火事の中なる鏡台に

お手だまに母奪われて秋つばめ

母とわが髪からみあう秋の櫛

母の蛍捨てにゆく顔照らされて 

 

母の句は最も典型的な対照関係を示している。A群が「母恋い」の句であるのに対して、B群ではその思いが愛憎に転じているのが読み取れる。 

A群に比べB群の俳句において虚構も高次に昇華されているのが分かるだろう。B群の持つドラマ性や映像的なコラージュ技法もそこに指摘できる。 

寺山自身は「私」ということについてこんなことを言っている。 

 

《自叙伝などは、何べんでも書き直し(消し直し)ができるし、過去の体験なども、再生をかぎりなくくりかえすことができる。できないのは、次第に輪郭を失ってゆく「私」そのものの規定である。》(寺山修司『黄金時代』より) 

 

読者は『花粉航海』を一冊の「私」小説として読む。俳句という詩型のもつリアリティを逆手にして「私」小説的な虚実の皮膜の中に一群の俳句を置いた。 

 

【非連続性】 

次に寺山俳句の特性として挙げたいことは、非連続性の詩ということだ。文芸における連続性の議論はあまりなされていないと思うが、韻文の場合それはかなり重要なポイントを占めると考えている。それは言いかえれば時間の流れを基本にすえるかどうかということにある。俳句における連続性とは何か。寺山はそれを俳人の私性というメモリアリズムにあると批判した。 

 

《全く私でない「私」の句であり乍ら日常報告の句、私の愚痴を一歩もでない句が実に多いのはなぜであろうか。メモリアリスムからの脱出が果たされないことはどうやら歌壇も俳壇も同じような「時評的」ななやみであるらしい。しかし、これがゆめ民族詩である証左だなどとたかをくくってはいけない。私であるつもりが実は報告し終ったときにはアリバイを喪失している、といった手合が実に多いのだから。》(寺山修司「地下室の美学」 『俳句研究』昭和三十四年十月) 

 

《日常的なメモリアリズムの俳人は、自分自身の生活が平穏になってゆくと、俳句の方も函数的に無事になる。そういう意味では、精神宇宙のスケールのある俳人の方が持続力をもつという気がする。》(「俳句、その出会いとわかれ」 『蘭』昭和五十四年四月) 

 

現実を現実の範囲内に表白し、そこに「写生」という概念を被せ、それを詩としている姿勢を批判したのである。これは俳句あるいは短詩型の本質に関わる重要な指摘である。俳句は連作を行おうとも基本的には一句独立の詩である。詩型としては本来非連続性の詩と言うべきなのかもしれない。 

 

ここに寺山の資質について触れた大江健三郎の言葉がある。 

 

《寺山は、あきらかにかれの才能のしからしめることですが、詩の切断性において、屹立させることをめざしていたのでした。》(大江健三郎「自作の引用にはじまり、引用がすべてを覆うと思われる日に向けて」より) 

 

大江はこれを寺山の資質と捉えたようだが、本来それこそが俳句の特質だと言うこともできるはずだ。そもそも十七音に連続性を持たせること自体、ある意味幻想であるかもしれない。俳句は一句独立し、最小の言葉の塊として読者の前に投げ出されているのだ。そこにあるはずもない連続性を持ち込んでいるのが凡百の俳人の発想なのだと、寺山は言っているのだろう。 

 

【異端?】 

「私性の超克」と「非連続性」について、それらを寺山俳句の特性として述べてきた。前章の分析の中でも彼の特性についてできるだけ触れてきたつもりである。 

ここで、私が第一章(序論)で提示した第二の設問を思い出してほしい。 

これでも寺山俳句は異端なのか、と。 

寺山俳句の特性というべき点の全てが、本来短詩が持っている韻文性と深く関わるものであると私は考えている。寺山は昭和五十年の時点で周到かつ苛烈な詩人魂をもって『花粉航海』を上梓した。それはけっして高校時代を回顧するようなメモリアリズムではない。しかも定型感覚に十分根ざした作品であったのである。

 

第五章 結論(まとめ)

第三章において私は、句集『花粉航海』の構成について分析した。そこから現れてきたものは、寺山が三十九歳の時点で、句集『花粉航海』をあたかも二十年前の過去から送られてきたものであるかのように仕掛け、自らの伝記を書き換え、青春俳句という神話を作りあげようとした彼の意思であった。あまりに神話に縛られた寺山俳句。それを解放し、戦後俳句の一成果として、私なりに正当に鑑賞しようとしているのである。今回本稿を書き上げる過程において、はっきりと三十代の俳人寺山修司を見つけたと思っている。 

 

寺山修司の俳句を構成している重要な要素は、彼の「言語感覚」にある。「故郷」「母」「父」などの寺山的キーワードは「私」性の超克のための小道具であり、修司俳句の本質を現すものは彼の「言語感覚」によって屹立した「非連続性の詩」なのである。それが何を意味するか。俳句に純粋詩として夢を託した寺山の作品は、俳句の本質になんら反しない言い換えれば保守的ともいえる作業であった。俳句を、この詩型でなければ表現できない詩として、研ぎ澄まされた言語感覚にて作句をし続けた。 

 

子規は俳句を文学として成立させるため、絵画からの「写生」論を革命手法として導入したが、それを漫然と引き継ぎ、「あるものをあるがままに」というありえない観念にしばられ、膨大なる「ただごと」俳句の存在を許してきたのが、戦後の「現代俳句」というものなのではなかろうか。その「写生」俳句に、定型論や伝統を混同させ、スポイルされ矮小化した俳句観が横行している。「無季」や「前衛」なども、あたかも「写生」俳句への対抗軸のごとく言われている。「写生」であれ、「無季」であれ、「自由律」であれ、それが詩である限り、「言葉」「文字」「音」によって構成されていることから逃れることは出来ないのだ。つまりそれこそ俳句の唯一本質と言えるものなのである。寺山の俳句作品を読み解くことは、俳句にとって「言語感覚」がきわめて本質的なものであることを知ることでもある。修司俳句は異端ではない。異端どころか、本流とさえ言うことができるのである。 

 

以上のことが寺山修司の俳句を語る結論と言えるのかどうか、また事実であるか、本人が既にこの世にいない今、証明しえないものも多い。しかしながら、私はこの小論をもって私自身が寺山修司という俳人を再発見した。寺山の俳句の伝統定型詩としてのありかたを分析し、同時に彼がその人生を通して俳人であったことを論じたつもりである。寺山の俳句が今後も、過去形としてではなく、異端としてではなく、語り継がれてゆき、俳人たちの韻文精神の高揚に資するものであることを切望して止まない。 

 

この論を次の寺山の言葉で終わらせることは、まだ私が彼の神話から目覚めていないということだろうか? 

 

《私は肝硬変で死ぬだろう。このことだけは、はっきりしている。だが、だからといって墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば充分》(寺山修司『墓場まで何マイル?』より)        

 

                    (文中敬称略)

 

(参考文献一覧)

『寺山修司俳句全集』(あんず堂)

寺山修司『花粉航海』(ハルキ文庫)

寺山修司『われに五月を』(思潮社)

寺山修司『墓場まで何マイル?』(角川春樹事務所)

寺山修司『地獄篇』(思潮社)

寺山修司『誰か故郷を想はざる』(角川文庫)

寺山修司『書を捨てよ、町へでよう』(角川文庫)

寺山修司『黄金時代』(河出文庫)

寺山修司『田園に死す』(ハルキ文庫)

『寺山修司青春歌集』(角川文庫)

寺山修司『戦後詩』(ちくま文庫)

寺山修司『啄木を読む』(ハルキ文庫)

寺山修司『悲しき口笛』(ハルキ文庫)

寺山修司『不思議図書館』(角川文庫)

寺山修司『両手いっぱいの言葉』(新潮文庫)

寺山修司『私という謎』(講談社文芸文庫)

『寺山修司短歌俳句集 海に霧』(集英社文庫)

『寺山修司詩集』(思潮社・現代詩文庫)

『寺山修司』(ちくま日本文学全集)

田澤拓也『虚人 寺山修司伝』(文芸春秋社)

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』(講談社文庫)

寺山はつ『母の蛍』(中公文庫)

『ユリイカ 臨時増刊 総特集・寺山修司』(青土社)

『俳句現代 1999年6月号』(角川春樹事務所)

『文藝別冊 寺山修司』(KAWADE夢ムック)

『すばる 2001年8月号 特集・寺山修司からの手紙』(集英社)

『寺山修司・齋藤愼爾の世界 永遠のアドレッセンス』(柏書房) 

 

※本稿は、『現代俳句』15年12月号、『雪華』15年12月号に掲載されたものである。ホームページ掲載にあたり読みやすさを考慮して、行替え、行空け等を一部変更した。

 

※その後、『藍生』16年5月号に掲載された。

 

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